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流水御殿と呼ばれる屋敷で、喜八は早い夕食の支度をしていた。師の流水は一旦作業場に入ると寝食を忘れて絵を描き続けるので
今夜、食べるかどうかわからない食事を喜八は作って待っている。
何度もここに通いつめては”弟子はまだ取らない”と言われ、一旦は諦めて父の遊郭を手伝っていたら、まさかのご来店、最後の力を
振り絞り、恥を忍んで自分の描いた絵を差し出した。貶されれば諦めもつくかと思ったのだが、絵を見た流水は表情を変え、見習いとして
うちに来いとまで言いだしたのだ。
それがただの使用人扱いだとしても、喜八には死ぬほど嬉しかった。元々商売には向いていないと感じていたし、何よりお町の本の挿絵で
見た流水の絵に魂を奪われ、明けても暮れても絵の事ばかりが頭の中を占めていた。今、流水の絵の一番近くにいられる事が嬉しくてたまらない。
「おっかさんに料理習っといて良かったな〜お町さんの後ばかり付いて歩いて、俺に家の事させて色々不満はあったけど、お町さんつながりで
先生の事も知ったんだし、これは運命だよな」
犬コロのような大きな丸い目をした小柄な少年は確かに、雪花楼にいると陰間と間違われる事がしばしばで、父の平次も後を継がせていいものか
悩んでいた。美少年というタイプではないが素直な可愛い風体な為、人気もあり、売ってくれと行ってくる客もいた。
「あっいけない、バタンキューもありだ、布団敷かなきゃ」
奥の間に行き、布団を敷きはじめる。喜八が来る前までは、この広い屋敷の作業部屋と寝室は散らかり放題だった。流水が一人暮らしなのに
何故こんなに広い部屋の多い家に住むのか、わかる気がした。散らかっていない客室が2,3室あれば、客をそこに通せば問題はない。
作業部屋と寝室は開かずの間として封印されていたのだ。
流水は絵を描く事にしか関心を持たないので、ほおっておけば何日も何も食べずに過ごすのだ。訪ねてきた師、風霞に餓死寸前で
発見された事もある。
そんなこんなで、内弟子をとって家事をしてもらえと風霞は何度も提案していたらしいが、問題は人見知りだった。
喜八とも必要以上に言葉を交わさないが、喜八はその数少ない一言一言に感激し、嫌な顔一つせずに楽しく働く。
喜八を、流水は気に入っていた。
布団を敷き終わるやいなや、流水が襖を開けて入ってきた。
「先生、お休みですか?ここに、おはぎとお茶があります、少し召し上がってください」
食事をしない時の対策の一つとして、喜八はおはぎも準備している。少しでも空腹を満たしてから休んでもらおうという配慮だ。
「あずきご飯のようなものですから、きっと食事と同じですよ」
とお茶を入れて差し出す。
「すまぬ、気を使わせたな。そこまでせずともよいぞ。」
美人が台無しな、ヨレヨレ具合にも臆せず、喜八はおはぎを箸でつまみ、差し出す。
「先生こそ気になさらないでください、はい、あ〜ん」
力なく、おはぎを口にしながら、流水は喜八を見る。
「変わった事はなかったか?」
「雪花楼の夕華さんから文がきました」
と差し出された文を流水は力なく広げ、読み始める。
「何かトラブルでも?」
「いや・・・また来いという懸想文だ、くだらんな」
夕華を描くために流水は確かに雪花楼に趣いた、デッサンのために身柄を拘束するので、花代を払ったが、客になった覚えはない。
下絵ができたので流水は仕上げを自宅でしている。雪花楼にいく用はもうないのだ。
「夕華さんは先生がお好きなのではないでしょうか、恋をされたとか・・・」
「陰間が客に恋などありえん。私が色恋などもっとありえん。いつか夕華にそのへんの事情を話しとけ。あいつは、そんなあばずれじゃないと
見込んで描いたのに、残念だ」
夕華はあばずれてはいないと喜八は思った。きっと人生で初めての恋をしたのだと思う。
流水はただ、見た目が美しい者を描いているわけではない。美しさを餌に人を騙したり、見下したりするような者には目もくれず
自分が美しい事に気づかない、心の美しい者を選んで書いていたのだ。
「夕華さんは、本当に先生がお好きなのですよ。真剣に」
こんな話をしつつも、流水は喜八の差し出すおはぎをボソボソと食している。
「私の何を知っているのだ、たった数日会っただけで・・・どうせ私の容貌に惚れただけだろう」
「俺は、先生の絵を見たとたん、先生が好きになりました。こんな美しい絵を描く先生に惚れました。たとええ先生がデブでも
ハゲでも、オヤジでもジジイでも俺は先生が好きです」
それはお町から何度も聞いた。
ーあんたの絵に惚れて、会いたいっていうガキがいるのよ〜お菊の息子なんだけどね、先生は人見知りだって断ったら、デブでもハゲでも
ジジイでも好きだから会いたいって、実物見たらきっと卒倒するね〜美人過ぎてー
そんな笑い話だった。
雪花楼で会った時、確信した、彼は流水の顔など見もせず、手元の描きかけの絵に釘付けだったからだ。本物の早川流水かどうか、絵を見て
確認したのだ。
自分の容姿に動じなかったのは師の風霞と、お町と、お菊、そしてこの喜八だけだった。
それが嬉しくて、傍に置こうと思った。一緒に住んでも、喜八は自分の絵にだけ関心を示し、全身全霊を掛けて作業をサポートした。
そして、空いた時間はひたすら絵を描いている。
それは、理想的な事だった、自分が望んでいた事だった。しかし、近頃、何か淋しさを感じる。
「私は、デブでも、ハゲでもジジイでもないが、好いてくれるか?」
おはぎを食べ終わり、お茶を飲みつつ流水は呟く。
「もちろんです」
「絵を描けなくなったら、お前は私を捨てるのか?」
美貌のゆえに好かれるのと、絵の上手さ故に好かれるのは同類項ではないか・・・流水はそれに気づいて焦るのだ。
「いいえ、先生の絵が好きという事は、その絵に込められた先生の内面が好きだということなのです。先生はとても繊細で優しい
そして、儚い方なのです。その全てが俺は好きです」
ふん・・・表情を歪めて流水は喜八に背を向け、布団に横たわる。
欲しい言葉をもらった時、どうしていいのか流水はわからなくて、つい無愛想な反応をしてしまう。お町にもそうだった。
しかし、お町はそれを誤解する事なく理解していた。喜八はどうだろうか・・・少し不安になる。
喜八はそんな事には気にもとめないように、流水に布団をかけ、おやすみなさいと部屋を出て行った。
彼は喜八が、自分にとって、お町以上に大切な人になる事を感じている。しかし、どう愛情表現すればいいのかわからない。
たかが15歳の少年に嵌った自分が滑稽でたまらない。今まで誰も、これほどまでに自分の受け入れてくれた人はいない。だから戸惑うのだ。
自分の中の、どす黒いものを、踏みにじられてきた過去を、喜八が知ったら離れてゆくかもしれない。
それとも、遊郭の家に生まれたから、陰間に対して偏見はないのだろうか・・・
たとえ、そうだとしても知られたくなかった。喜八にとって自分は孤高の存在でありたいと願う。
ー夕華さんは先生がお好きなのではないでしょうか・・・恋をされたとか・・・ー
喜八の声が脳裏に浮かぶ。
(恋をしただと?私も・・・バカバカしい、15の子供にか?しかも男だ)
絵師として風霞に弟子入りした時、流水は武家の身分も捨て、ただ絵だけを描いて生きてゆこうと思った、人を愛する事も人に愛される事もなく。
愛され、愛するそんな資格さえ自分にはないのだと思っていた。
なのに・・・
恋というものは、にわか雨のように、突然やって来る、時も場所も選ぶことなく・・・・
思い掛けないにわか雨に、流水は自分を持て余していた。
一眠りすると、もう次の日の昼前になっていて、流水は身なりを整えて居間に出た。
昨夜は疲れているのに、色んな思いが湧いて来てなかなか眠れなかった。ぼうっとする頭を軽く叩きながら居間にゆくと、そこには喜八と
どこかで見た男とそのツレらしい少年がお茶を飲んでいた。
「ああ、先生起きてこられました、結城屋さんがお町さんの文を届けに来られたんで、お茶を差し上げていました」
そう言いながら喜八は流水のお茶を準備した。
「先生お疲れですね、お土産に前田屋の大福とか、みたらしとか色々買ってきました、疲れた時には甘いものが一番ですから」
誠次郎の甘物オンパレードに喜八は苦笑する。確かに流水の主食は甘いものである。喜八が他の栄養摂取を心がけているが
やはり甘いものを主食にしている。
「ああ、先日会うたな、結城屋、お町に会われたのか」
誠次郎が差し出す文を受け取ると懐にしまう。夕華の文とは待遇が違うので喜八は驚く。
「元気でしたよ、相変わらず。綾姫が流水さんに会いたがってるから、一度お城に来てくださいとの事でした」
「行っても良いのか?城だぞ?私のような一介の絵師が・・・」
人見知りと聞いていたのに、行く気になっている流水に一同は言葉を失う。
「行く時はお供しますよ。それに喜八も付いてきなさい、お紺が心配してるから。顔見せなさい」
え?喜八は首をかしげる
「おっかさんはお城にいるんですか?」
「ああ、身重の身でお町の世話焼いてるよ」
えええ・・・・喜八は母のお町バカに呆れた。