スティグマータ 1
久しぶりに家に帰り、親子3人で食卓を囲んだ光輝は、母の明るい笑顔を久しぶりに見た。
最近は、光洋は落ち着いてきている。休日は夫婦で出かけることも多いらしい。
「今日は泊まっていくんでしょ?」
食後のコーヒーを差し出しつつ、智香子は光輝に訊いてくる。
「ああ・・・」
馨と離れて過ごすのは辛いが、親孝行。、仕方がない。
「お前、教授にはもう、なる気ないのか?」
「この仕事終えたら、考えるよ」
あと少しで、翻訳は終わる。その後どうするか・・真剣に考えなくてはならない。
「既刊の上巻は好評だそうだな」
「俺の訳がいいわけじゃなくて、内容がいいからだろ?まだ西洋で”ゲンジ”は人気あるからな」
しかし、あちこちで光洋は、光輝の英訳が認められている話を耳にする・・・・
また、それが心配の種でもある。馨がらみで、光輝が有名になると、厄介な事も起こるからだ。
馨の手首の傷を探っている記者もいると、服部からも聞かされていた。
「光輝、後で私の書斎に来なさい」
そう言うと、光洋は立ち上がって二階に上がった。
「なんだよ・・・親父?」
風呂上りに光輝は父の書斎に入った。
「これ・・・」
差し出された新刊は、新井俊二の小説だった。
古い、昔堅気の文豪ではあるが、最近の若者には人気がない。
実力はあるのに売り上げが伸びず、新作の書籍化が何度も見送られているらしかった。
「親父・・・こんな本も読むのか?」
手にとって、ぱらぱらとページをめくりながら光輝は笑う。光洋は海外文学しか興味がないと思っていたが・・・・
「スティグマータ ・・・聖痕か。キリストの話でも書いたのか?」
「裏のあらすじ、読んでみろよ」
字を目で追う光輝の顔がだんだん険しくなる。
美貌の青年が、自分の在籍している大学の教授と不倫関係に陥る
一度はともに死ぬ事を選んだが、彼は教授に裏切られ手首に傷を負ったまま。生き恥を晒す事になる
傷ついた心、体・・・数年後、高校教師として赴任した彼は生徒の中に、かつての不倫相手の息子の姿を見る・・・・・ー
そんな内容だった
「親父・・・これ・・」
「モラリストの新井俊二が、同性愛を扱った作品を出したと話題になっている。ウチの女学生たちは皆、読んでいる」
新井は馨を目の敵にしていた
容姿の美しさだけで成り上がったエセと・・・・
確かに、馨の意に反して、世間は才能よりルックスを持ち上げていたので無理もない。
しかし・・・馨に罪はない。
「世間で言われている佐伯馨の噂を、そのまま書いたとしか・・・」
確かに、偶然ではない。これは嫌がらせだ。
馨は手首の傷の事を聖痕だと言った・・・・
「名誉毀損で訴えるか?」
「それは、わざわざこれは私の事です。というようなものだ」
確かに、無視するしか方法はない。
「光輝、今まで通りにしているんだ。少しでも変わったところを見せると食いつかれるぞ」
光輝は唇をかむ。
どこまでも傷は馨に付きまとう・・・・
「もし、マスコミに引きずり出されてもうろたえるな」
「親父・・・」
「すまない。すべて私の罪だ。許してくれ・・・」
光洋から覚悟が伺えた。自分の罪を正面から受け止め、償おうとしていた
「光輝、何を言われても動揺するな。お前も相当の覚悟で馨と一緒にいるはずだからな・・・」
「俺は、世間体も名誉も捨てられる。馨のためなら」
うん・・・・光洋はうなづく
「お前はそういう奴だ。馨を守れ・・私が守れなかった分、守ってやってくれ」
ああ・・・
光輝はうなづく。
迷いはない。馨を決して捨てたりしない。何を失っても、馨だけは捨てられない。
「どうせ、こんな醜聞的な小説は伝染病のようなもので、ピークを過ぎると消えてゆく。新井は名実ともに落ちぶれたんだ」
確かに、出している出版社自体、三流だ。
「俺は昔、自分可愛さに馨を捨てた。お前は最後まで守れ」
「いいのか?親父・・・それで?」
「そうしなければ、私は・・・」
光洋は言葉を詰まらせて手で顔を覆う。
「ありがとう、それから・・・立場を悪くしてすまない」
そう言うと、光輝は立ち上がった。
「行くのか?」
「ああ、お袋には言い訳しといてくれ」
そう言うと、光輝は自室に戻り、身支度をして馨のマンションに向かった。
「光輝・・・」
部屋に入ると、馨はソファーに座って読んでいた本を後ろに隠した。
「馨・・・それ・・・」
「新井先生が・・・新刊出したからと、くれたんだ」
「新井に会ったのか?」
「今日、新刊売り上げ1万部突破の記念パーティによばれてな・・・」
あいつ・・・どこまでいやみなんだ・・・光輝は怒りを隠せない。
「どうして行くんだよ!そんなところ」
「逃げたくないからさ」
光輝は光洋から渡された新井の本を差し出す
「これだろ?」
「どうして・・・」
「知っていてずっと黙ってたのか?」
馨は苦笑する。わざわざ教えてくれるおせっかいな出版関係者もいる。しかし、過激に反応する事は危険だ。
むしろ、敵はそれを望んで、しかけてくるのだから・・・・
「気にするような事じゃない。少し読んだけど、低俗でつまらない内容だ」
光輝に心配を掛けさせたくなかった。そして・・・・巻き込みたくなかった。
「本当だ。何も感じない。今まで充分苦しんで来たから、これ位なんでもない」
と、馨は立ち上がる
「心配して帰ってきたのか?バカだな・・・おふくろさん孝行しろよ」
強がりではない馨の言葉に、光輝はかえって衝撃を受ける。
恩師の服部さえ、光洋の側につき、たった一人で痛みに耐えてきた日々は半端ではない。
「馨・・・」
馨は微笑んで、光輝を抱擁する。
「ありがとう。お前のお陰で、今は本当になんでもないよ」
総てを失う事など怖くない
光輝さえいれば・・・・
「お前を守る。親父にそう約束して来た」
何があっても最後まで馨のもとを離れないと、光輝は誓った
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