過去の幻 5
次の日の昼過ぎ、自宅に帰ってきた馨を、服部はドアの前で待ち構えていた。
「頼む、もう一度だけ鷹瀬に会ってくれ」
マンションの中に入るなり、服部はそう言ってきた。
キッチンで紅茶を入れつつ、馨は沈黙した。
「お前と和解しなければ、あいつは・・・」
いつも、この人は、教授と妹と光輝の事しか頭に無いようだ・・・馨は、静かにそう思った。
「入院されたそうですね。そんなに精神を病んでおられたのですか・・・」
服部は驚いて馨を見る。
「何故それを・・・」
「ご存知の事と思いますが、論文の書籍化の会議の為、外泊しておりました。ホテルで、奥方と鷹瀬にばったり会いまして・・・」
服部の顔が色をなくす・・・
(会ったのか・・・智香子は・・・馨に・・)
馨は入れた紅茶のカップを、服部に差し出す。
「後で鷹瀬が、私の部屋に来まして、教授が入院されたと聞きました」
胸を押さえて、服部は呼吸を整える。
智香子の事だ、馨の事を何も疑う事は無いだろう。光輝がフォローすれば100%信じる。
が、悪い因縁としか言いようが無い。
「そうか・・・あそこに泊まったのか。」
光洋がよく、学会の出張で使っていたホテル。
服部は、とるものもとりあえず、そこに妹とその息子を送った。
「出版社がとってくれた部屋なんですが・・・最悪でしたよ。」
馨の口調で、彼はただならぬものを感じた。
「まさか・・・佐伯・・お前、あそこで鷹瀬と・・」
はははは・・・・・嘲笑うように笑いつつ、馨は冷たい目を服部に向ける。
「泊まりましたよ。大学生の頃ね。出張のついでに愛人と逢う・・・不倫の定番でしょう?まあ、ホテルが同じだったのは許すとしても、部屋まで同じとは、いただけませんね」
ガチャン
紅茶のカップが倒れる・・・テーブルに琥珀の液体が広がって行く・・・
「まさか・・・そんなことが・・」
あるはずが無い!あってはならない。
「どうしても、2日目は、そこに泊まれそうもなくて、替わってもらおうとしたんですが、その相手が奥方だったので、結局2日目も そこに泊まりましたよ。」
なに・・・・・
何処まで悪い因縁は続くのだ・・・服部は吐き気さえ催した・・・
「もう、疲れました。終わりにしたいんです。忘れたいんです。書籍化の為に、私は桜華の産休も辞任します。だから・・・もう関わりません。」
本当にそれで解決するのか・・・・
光洋はどうなる・・・・
「佐伯、鷹瀬に一言、謝罪する機会をくれないか・・・」
忘れたり、逃げるのではなく、正面からぶつからないと解決しない。
医者はそう言った。
確かに、逃げたり、忘れたりしたが解決はしなかった。だから・・・服部は馨を訪ねたのだ。
「謝罪・・・ですか・・」
ー言い訳はしない。憎むなら憎め。決して俺を許すなー
光洋の最後の言葉だった。
彼は許しを請う事より、罰せられる事を望んだ。
それが彼なりの贖罪だった。
しかし、限界が来た。彼の中で、この罪はあまりに大きく、消化しきれないものなのだ。
「あいつは許しなど望んではいない。許されるとも思っていない。だが、それでも謝罪しなければ、これは終わらないんだ。」
(俺が一言、許すと言えば、あの人は救われるのか・・・)
馨は瞳を閉じる・・・・
「佐伯、信じてやってくれ、鷹瀬はあの日、本当に心中する気だったんだ。」
(俺は捨てられたんじゃないのか?)
馨は閉じた瞳を見開く。
「お前の後を追って、死のうとした時、携帯に電話が入った。光輝からだ」
息子の声を聞いて、死ねなかった・・・そう言うのか・・・・
馨は服部を見る。
「”お父さん、早く帰ってきて”息子のその声を聞いて・・・鷹瀬は・・・」
馨の目から涙が流れる・・・・
「あの人は、私と一緒の時は電話をとらなかった。なのに、息子からの電話は取るんです。私は息子には最後の最後まで勝てなかった・・・」
しかし、馨は思う。
もし自分が息子の立場なら、父親にそうあって欲しいと。
「佐伯・・・」
光洋の息子以上になりたかったのに、なれなかった馨・・・
光洋に父を求めたのに、光洋は馨にとって、父ではなかった。
服部は馨を抱擁する。
「すまなかった・・・私は役立たずだった。」
今なら、服部の優しい言葉を受け入れられる・・・
悪夢の末に、馨は本気で、光洋を愛していた事を思い出した。
愛ゆえの憎しみ・・・・これに決着をつけなければ、前に進めない・・・
「会います。そうしなければ、私も前に進めない。」
終わらせるために・・・・
過去の幻と離別する為に・・・
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