過去の幻 2

 

「佐伯先生、書籍化おめでとうございます」

会議を終えて、立ち上がる馨に出版関係者は、そう声かけてゆく・・

会釈しつつ、馨は苦笑する。

確かに、在学時から馨は実力があったが、ここまで上手く事が運んだのは、服部が強く押したからだ。

それは・・・罪悪感から出た罪滅し・・・・それでも構わない。

きっかけはどうであれ、未来は努力次第ではないか・・・

もう、鷹瀬親子とは、別の道を行くと決めたのだ。

 

祝宴の誘いも断り、馨は部屋に向かう。

まさかとは思うが、光洋とのことが話題に出る事を避けて・・・・

いつかは過ぎた事と笑えるのだろうか?

しかし、今は苦し過ぎる。

 

ドアを開けると、とたんに思い出に埋もれる。

振り切るようにスーツを脱ぎ、浴室に向かう。

シャワーから降り注ぐ冷たい水にうたれつつ、馨は左手首の傷を見る。

(この傷の罪は一生背負わねばならない・・)

いや、そんな事は覚悟の上だった。涙がシャワーの水と溶け合い、一つになって落ちて行く・・・

耐えられないのは・・・捨てられた自分。

供に死を迎える事を約束した人に逃げられた自分。

(もしかしたら、あの人は、初めから死ぬ気も無かったのかも知れない・・)

邪魔な馨を、自殺にみせかけて殺そうとしたのかも・・・・

 

髪から雫を滴らせて、馨はバスローブをまとい、浴室から出る。

愛されていたと思ったのは錯覚だったのか?ただ、物珍しさに男を相手にしたのか?

何百何千と繰り返してきた問いかけ・・・・

 

ー男にしちゃあ綺麗じゃん、下手な女よりイケるかもなー

大学で先輩達はそう噂した。

ー俺、ノンケだけど、佐伯ならOKだぞー

同期生に、そう言い寄られもした。

そこには、愛情を見出せなかった。あるのは欲望・・・光洋は違った。そう思っていた。彼に父親を見て慕った。

息子みたいだ・・・そうも言った。父親に甘えるように、ただ抱擁されていた。

そしていつの間にか・・・・・・

 

バカだ・・・俺はバカだ・・・

それは罠だった。最初から光洋も馨を狙っていたのだ。気長に、巧妙に仕掛けられた罠。

決して、光洋は強引に迫る事はなかった。

少しづつ身体を慣らされて行き、最後に光洋を欲したのは馨だった。

それが悔しくてたまらない。

(結局、遊ばれただけ)

鏡の前で唇を噛む。

 

それなのに、別れまいとすがった。

遊びでも、愛されていなくても、一人ではいられなかった。寄り添う肌の温もりに、慣れてしまっていた・・・

傷つくプライド、失われる自我、それでもすがるしかなかった。最初の男に。

きっと、女性達はそうなのだろう。純潔を与えた男に執着するのだろう・・・

自分は男でありながら、光洋に”女”にされた。だから・・・そうなのだろう・・

自分に付いた”女”の匂いは取れないらしい。

今も時々、男にナンパされる。しかし、男が欲しい訳じゃない。昔も今も。

ただ、愛してくれる”誰か”が欲しかったのに・・・

 

ため息と供に、馨は髪の雫をタオルでふき取る。

冷房完備の部屋は、冷水シャワーで冷えた身体を、さらに冷やす。

あの熱病にかかったような日々は二度とない。

凍りついた心と体は、もう、溶けることは無い。

そんな身と心を溶かすだけの、情熱と愛情をもった者になど、出会うことは無い。

近寄るものを凍らせるだけの自分。現にアポロンさえ輝きを失ってしまったではないか・・・・

 

寝室に入り、ベッドに横たわる。

焼け付くような、灼熱の時を過ごした寝台は、今は氷の湖・・・

(にしても・・・)

馨は寝返りを打つ。

この部屋の、この寝台とは・・・・悪夢を見ることは必須だ。

人の記憶は消えない・・・辛い記憶は、なおの事・・・

 

(俺は・・・何処かで気付いていたんだ)

窓から差し込む月灯りを見上げつつ、馨は呟く。

気付いていた・・・いつか終わりが来る事を。

情事の後、そっと顔を背けて泣いていた自分・・・悲しくて・・・悲しくて・・・

 

それでも・・・・

 

愛していた・・・・

 

 

命まで捧げるほどに・・・・・

 

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