過去の幻 3
いつも密会に使っていた高級ホテルの一室に ある日、馨は呼び出された。
仕事で光洋がよく使うホテルなので、馨が書類ケースを持って出入りすれば、疑われる事は無い。
「教授・・・」
窓の外を見つめる光洋の背中に、いつもと違う何かを感じる。
「馨、お前は私の為に死ねるか?」
別れ話に死を持ち出すとは・・・馨は一瞬呆れた。
が・・・・振返った光洋の目は思いつめていた
「お前を離すことが出来ない。でも・・・私は、家庭を壊す事も出来ない。もう限界なんだ。」
「僕のせいですか?家庭に戻ろうとした教授にすがった 僕のせいなんですか?」
光洋も苦しんでいた・・・それを理解できなかった自分に、馨は愕然とする。
「判っていた事なのに・・・私はバカだ。踏み込むべきではなかったのに・・・」
思慮深い服部に比べて、光洋は行動派だ、そして情熱家でもある。
彼の、そんなところに魅かれた馨は今、その性質が周りを巻き込み、災いするものであった事を知る。
(まるで光源氏だ・・・)
しかし女達は皆、そんな光源氏に魅かれていったのだ・・・・
こんなバカな男に引っ掛かるなんて、女はバカだと思っていた馨は、今始めて、自らその罠に嵌っていた事を知る・・・・
(恋は盲目・・・)
何も見えなかった。今まで・・・
(そういうものなのか・・・)
愚かな自分を嘲笑う・・・・
「総てから解き放たれる為に・・・」
光洋は馨に歩み寄る。
「私と死んでくれないか」
光洋の手が、馨の両肩に置かれる。
光洋を見上げると、眩暈がして馨は目を細めた。
これほど死が甘美な響きを持った事は、今まで無かった。
浄瑠璃、文楽、歌舞伎・・今まで、ありとあらゆる心中物に魅力を感じなかった。
愚かしいと、バカだと・・・ただの逃げだと思っていたそれが、美しい宝石のように輝いて見えた・・・
最愛の人に命を預けるという行為が、とても尊く思えた。
(永遠に、教授は僕のものだ・・・・)
勝ち誇ったように微笑んで、馨は頷く。
「いいですよ」
迷いなど無い。もう引き返せない、引き返す気もなかった。
薄暗い寝室の横たわり、馨はそのまま、光洋に左手を預けた、その一瞬が人生で最高に幸せだった。
痛みはもちろん感じる。流れる血も尋常ではない。それでも信じていた。最後まで。光洋を・・・・
しかし・・・目覚めたのは、病院の一室・・・
死ねなかった・・・・・
光洋も、自分も、こうして生きている・・・・何事も無かったように、見知らぬ他人として・・・
何故?・・・・・・・・・何故何故!!!
はっー 馨は目覚めた
明け方・・・まだ外は薄暗い。
ふぅ・・・・
どうすれば、あの悪夢から開放されるのか・・・
(あの人は、逃げた・・・最後の最後に)
これ以上の裏切りがあるだろうか?
眠っている時でも、馨は左手に時計を装着している。
これは、傷が人の目に触れない為の時計ではない。自分の目に触れない為・・・・裏切りの印であるそれは、いつも彼を嘲笑う。
一時の恋情に目がくらみ、地獄に落ちた自分の罪の烙印。
早々にベッドから這い出す。
(やはりソファーで寝るべきだったか・・・)
今日も午前中、会議がある・・・
悪夢を振り切るように、時計を外し、浴室に入る。
冷たい水に打たれて悪夢を流し去ろうとする・・・
心まで凍ることを願う・・・・
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