傷月 4
夏休みも近づくある夜、服部和弘が馨のマンションを訪ねてきた。
光洋の親友で、人文学科の教授をしている彼は、馨の大学の恩師でもある。
「佐伯、今まで連絡もしないで、すまんなあ。元気か?」
光洋とは正反対に、服部は融通の利かない学者タイプで小柄で痩身だった。
馨は、以前は彼を慕っていた。あの事件までは・・・・・
「いいワインが手に入ってな、つまみも見繕って持ってきた。」
「そうですか・・・」
食器棚からワイングラスを取り出して、テーブルに置く。
この部屋の住所は、彼には知らせてはいない。彼は、鷹瀬光洋経由で来たことは明らかだ。
光輝の事で来たのも明白だ。
「桜華で古典教師してるんだって?」
ワインをグラスに注ぎつつ、服部は笑いかける。
「はい」
彼が持ってきた、カマンベールチーズや、サラミなどを皿に盛りつつ、馨は静かに答える。
「慣れたか?」
「そうですね・・・」
皿をテーブルに置き、馨も座る。
「鷹瀬教授から、頼まれて来たのでしょう?」
ふっ・・・
短いため息をついて、服部は俯く。
「本当は、俺はお前に合わせる顔なんか無いんだ。こうして、訪ねてくる事さえ恥知らずな事だと思っている」
「服部教授は、モラリストですからね」
その言葉は、服部にとっては、最大の棘だった。
何故あの時、止められなかったのか・・・何故、光洋の肩を持って、事件をもみ消したのか・・・・
「単刀直入に言う。光輝には、手を出すな」
ははははは・・・・馨は笑う。
「心外ですね。私が鷹瀬に何かするとでも?」
馨は変わった・・・・服部の知っている馨は、まっすぐで、素直だった・・・
それを、こんな風にしたのは光洋、そして・・・自分。
「光輝の様子がおかしいんだ。お前と何かあったんじゃないか?」
疑われても仕方ないが、あまりにも身勝手な気がした。
「俺に近づいてきたのは、鷹瀬のほうですよ。知っていますか?あいつ、賭けで女学生をナンパして、あっさり捨てる、そんな奴なんですよ。」
光輝がモテることも、恋愛ゲームじみた事に興じている事も、服部は知っている・・・
が、今まで大した問題はなかったので、黙認していた。
「あいつ、俺に賭けで近づいてきたんです。報酬はセント・ローザンの学園祭のチケット」
え・・・・・服部の思考が停止する・・・
「後ろから抱き付いてきて告白するわ、キスしてくるわ・・・迷惑してるんです」
まさか・・・・・
「挙句のはてに、ミイラ取りが、ミイラになったとか言いだして」
服部のグラスを持つ手が震える。
(まさか、あの光輝に限ってそんな事は・・・でも、光輝は光洋の息子だ・・・光洋が魅かれた馨に、同じように魅かれても不思議ではない・・・)
口元に笑みを浮かべて、馨はワインを飲み干す。
「高校生が教師を誘惑するなんて、本当に・・・血筋ですかねえ・・」
光輝・・・・服部の心が痛む。光輝は明らかに恋患いをしている。
「光洋とお前のことは、光輝には話してないんだな・・・」
はははは・・・笑う馨の瞳の冷たさに、服部はぞっとする。
もう彼は、昔の純粋な明るい青年ではない。
光洋が天使の微笑といった、微笑みは消え去っている。そして・・・自分と光洋の罪の重さを思い知るのだった・・・
「鷹瀬は知りたがってましたけどね。俺は”親父に訊け”と言いました。教えてやったらどうですか?」
こんな、変わり果てた馨を見るのは辛かった。もう、憎しみと、恨みと、孤独しか彼の中には無い。
「すまない。本当にすまなかった」
良心の呵責に耐えかねて、服部はその場に土下座する。
そんな彼を、馨は眉一つ動かさず、冷ややかに見つめていた。
「許されないとわかっている、でも、許して欲しい」
涙が頬を伝う。人一人の人生を変えてしまった自分。しかも、溺愛していた教え子を・・・
「教授、貴方のせいじゃない。貴方が止めても、俺と鷹瀬教授は、ああなっていた。それに・・・事件後、貴方が俺より鷹瀬教授を取ったのは
仕方の無い事。貴方は、鷹瀬教授の親友である以上に、義理の兄であるのだから・・・・教授が学生と不倫して、しかも相手は男。
心中未遂まで起こしたなんて公にしたら、貴方の妹さん、つまり、教授の奥方が、半狂乱に陥りますからね・・・妹可愛さにあなたが事件をもみ消しても
仕方ない事。」
馨の言葉は、服部を慰めはしなかった。むしろ咎めていた。
(そうだ・・・私は、妹可愛さに、一教授が起こした不祥事をもみ消した・・・・)
「とにかく、鷹瀬を何とかしてくださいよ。あいつデカイから、腕力で負けそうだし、手篭めになんかされたら、お笑いでしょう?」
明らかに、この状況を、馨は楽しんでいる。
光源氏は父の女、藤壺と通じた・・・
その罪はめぐりめぐって薫の大将という罪の子を送り出した・・・
服部は眩暈がする。薫と馨・・・・光輝と光源氏・・・
悪い夢でも見ているようだった・・・
「お前の受けた傷は深い・・・・・しかし佐伯、光洋も心を壊したのだ。あの後、睡眠薬無しで眠る事が出来なくなって、薬物依存症にまでなったんだ。」
ふうっ・・・・馨はため息をつく。
「殺人未遂を起こしておいて、すやすや安眠できたら、正真正銘のケダモノでしょうね。」
ぽたぽた・・・カーペットに涙が落ちる・・・
それでも・・・
それでも・・・
「それでも・・・頼む。甥は・・・光輝は・・・助けてくれ」
血を吐くほどの服部の言葉に、少しも動じることなく、馨は吐き捨てるように言う。
「助けて欲しいのはこっちですよ。いつ襲われるか判ったもんじゃない。息子の教育ちゃんとするように言ってください。」
「まだ・・・残っているのか?傷跡は・・・」
「これは、一生消えませんよ」
そういって馨は立ち上がる。
「もう話すことはありません。お帰りください。」
服部も、光洋も、あの時の悪夢を忘れるよう努力してきた。そして、過去のものにしてきた・・・・
しかし馨にとっては、それは過去ではない。
消えることの無い今なのだ・・・・・
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