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ー 玲二とはお関わり合いにならない方がよろしいかと思います。あれは毒ですから ー
そう言い残して部屋を出て行った雅臣の言葉が、志月には妙に引っかかる。
なぜ皆、高次の毒牙にかかっている少年を助けようとしないのか?歯止めだと雅臣は言うが、彼が犠牲になる義理はないだろう。
そして、いかに自分がこの家の穢れから一切関係のない場所で暮らしていたかを実感する。
深田高次・・・兄とは10才以上年が離れていて、接点がまるでなかった。自分が女装していたせいか、目の端にも
入れてもらえないまま、今まで同じ屋根の下で暮らした。
この広い屋敷の中では、あまり出会う機会もなく、出会っても声一つかけてはくれない兄。小さい頃は、彼は
弟が欲しかったのだろうと思っていた。妹の自分より、よそのどこからか連れてきた少年と仲良さげにいるのを見たからだ。
それがあまりに度を越えていた事にも気がつかなかった。彼は人前でさえ、少年を自分の膝に座らせていたが使用人たちは
それを子供好きな嫡男だと勘違いしていた。それには、こんな隠された事実があったとは・・・しかし、幼い少年に性行為を
強要するとは、まだ、志月には実感がわかない。性別を偽り続けて、あまり人と関わらないようにしていたため、誰かに
初恋のような感情を抱く暇もなかった。中学を卒業して、イギリスに留学してからは、兄の目に届かないところで
男として暮らしたが、再び家に戻るために、長い黒髪は切らずにいた。そして、もう日本では死語となった爵位に因み
アール・ムーン (月の伯爵)と呼ばれ、気軽に話しかけてくる者もいなかった。男にしては優雅な身のこなしを
彼らは、ただ、ノーブルと判断したのだ。日本で志月が女装して性別を偽っていた事は誰も知らない。
そんなこんなで兄の目を逃れて本来の姿で暮らしても、それほどハメを外すこともなく暮らした。元々が真面目な性格なのだ。
「お嬢様、旦那様がおかえりです」
ドアの外で女中の声がした。
「分かりました、参ります」
そう声をかけて、志月はドレッサーの前で真珠のネックレスをし、イヤリングをつけた。
装飾品なしでも志月は女らしいが、こういった女性を象徴する装飾品で強調する事が、高次の関心を逸らす最大の武器となる。
仕上にハーフアップスタイルにした髪にリボンを付け、女装を完成させた。
そして部屋を出て、父の書斎に向かう。
一階の奥の部屋に父、兼次の書斎がある。ノックして入ると兼次は背広から部屋着に着替え、机にの前にいた。
「志月、おかえり。留学中に引き戻してすまないな」
伯爵家の威厳を備えて、深田家の当主はそこにいた。兼次は穏やかな人柄の人格者で、家庭内に波風を立てるような事は一切なかった。
先代の決めた政略結婚の相手とも仲睦まじく暮らし、早くに妻を亡くした後は周りがいくら勧めても再婚しようとはしなかったが
分家の叔父に諭されて後妻をもらい、志月が産まれ、今、その後妻さえも病の床に臥せっている。
志月は、父が、自分と結婚した女性は早死する運命なのかも知れないと、小夜子との再婚を拒んでいた事を叔父から聞いた事がある。
自分に嫁いで命を縮めたかもしれない2人の妻の事、そして、異常な性癖を持って生まれた嫡男の事、それゆえに男でありながら
女と偽り生きなければならない末の息子の事、とてつもない重荷を背負い、身悶えしている父のやつれた姿に志月は唇を噛む。
「いいえ、お父様、それよりお母様のご容態は?南雲先生からは覚悟するようにと言われましたが」
ああー兼次はため息をついた。
「小夜子には苦労ばかりかける。彼女はお前の事が心配で、安心して永眠する事さえできぬかもしれない。
不憫だ、そしてお前も・・・すまないこんな格好をさせて、だがいつかお前は、本来の姿を取り戻せ」
そして立ち上がり、志月に歩み寄ると、静かに言った。
「お前だけが深田家の拠り所で、私の大事な唯一の血族なんだ」
この謎かけのような父の言葉の意味を、志月は後で知ることになる。しかし、今はその真意を図ることは出来なかった。
その後、夕食の席で、志月は兄である高次と再会し、正式に菊川玲二を紹介された。末席には南雲雅臣も同席しており
深田小夜子の緊急の事態に備えてこの屋敷にしばらくは滞在する旨を伝えられた。
「志月、お前、女のくせに背がまた伸びたな」
高次が夕食を共にして、久しぶりに会った志月にかけた第一声がそれであった。
「はい、お兄様に似たようです。まあ、お兄様ほどは高くなれませんけど」
そんな言葉を交わす志月の姿を、高次の隣にいた玲二はずっと見つめていた。自分でも気づかないままに。
「おい、玲二、何見とれてるんだ?お前女好きなのか」
一同はあたりを見回した、使用人たちが聞いてはいないかと・・・
「女でも、男でも、美人は好きですよ」
少し慌てたように視線を逸らして、玲二はしれっとそう言ってのけた。
使用人たちは、菊川家の未亡人から養子を一時期、深田家で預かる事になったとだけ話してある。
若い後妻の菊川夫人にとって、玲二とは親子というより、年の離れた姉弟のようなもので、一緒に屋敷で暮らすには
負担が多いのだろうと周りは把握している。さらに、高次の子供好きは皆の知るところでもあった。
「そうなのか、お前は金持ちのオヤジが好きなんだとばかり思っていた」
周りがその一言で凍りつくのを志月は感じた。そして、志月の様子を伺っているようだ。どうやら玲二のここに来るまでの過去の事らしい。
「まあ、お兄様、まだオヤジなどというお年では無いでしょう?確かにお金持ちではありますけど」
なんとかとぼけて、その場をとりつくろった志月を周りはホットした顔で見つめ、玲二はただひとり、面白そうにニヤニヤしていた。
どうも志月は高次と同席の食卓は息苦しくて苦手だ。食事を終えて自室に戻る途中、階段をのぼりきった所で、玲二は手すりに持たれて志月を待っていた
先ほどの事で志月に関心を持ったようだ。
「さっきのフォローはわざとですよね」
シャツにジーンズという部屋着で玲二は志月の前に立ちはだかる。
「僕のこと聞いてますよね、どうせ軽蔑してるでしょう?でも別にいいけど。あなたに関心があるんですけど少し話したいな」
初めて会った時の印象とはまた違う、少し拗ねたような、やさぐれたような玲二に興味を覚えて、志月は彼を部屋に招き入れた。
怖いもの見たさからなのか、玲二に惹かれたからなのかは自分でもわからない。
玲二にソファーを勧めて、多めに買った使用人達への土産の高級チョコレートの余りを玲二に一箱渡し、もう一箱を開けて勧めた。
「そちらはお部屋で頂いてください、さあ、お一つどうぞ」
「ご存じですよね、高次さんの性癖は」
渡された箱を脇に置き、差し出されたチョコレートを一つ手にしたまま、玲二は探るようにそう訊いてくる。
「はい。あの、申し訳ございません」
へ?いきなり謝られて、言葉を一瞬なくした後、玲二は大笑いした。
「別にあなたに怒ってるわけでもないし、謝らなくてもいいんだけど」
でも・・・高次の所業は犯罪だ。未成年相手なら罰せられる。
「生きるために仕方なく身売り・・・江戸時代みたいな事、現代でもあるんだ。お金持ちの貴族様にはわからないだろうけど」
志月の目から涙が滲んだ。目の前の少年は男娼などではなく、迷える子羊なのだ。
「泣かないで、なんか調子狂うな〜変にいい人って苦手なんだ。悪い大人にしか会ってこなかったから、どうしていいかわからないよ。
志月さんだっけ?あなたは高次さんの被害にはあってないよね?女の人だし。さっきの態度見ても、関心なさそうだったし・・・
あの人本当に男しかダメなんだね」
そう、被害に遭わないために、志月は男なのに女を偽っている。自分は卑怯者なのだと志月は思う。
「こんなに綺麗なのに、高次さん、あなたに関心ないんだ・・・」
まじまじと見つめられて、志月は俯いた。まつげの長い大きな瞳に見つめられて、体が熱を帯びてくるのを感じる。
今まで感じたことのないおかしな気分だ。
「玲二くんの方が綺麗ですよ」
そう言い返すのがやっとだった。
「うん、僕は容姿に恵まれた、でもそのせいでオヤジ達からお稚児の扱いを受けた。嬉しくないな、あなたは顔も身体も心も
綺麗なままだ。どこが違うんだろう?」
不公平だ・・・そう言いたそうな玲二の表情に、志月は心が痛む。
「本当の僕を見たら嫌いになるよ。そして軽蔑するだろうね、つらいな、あなたに軽蔑されるのはつらいよ、なんでかわからないけど」
そう、ポツリと言い残して玲二は立ち上がる。
「部屋に帰らなきゃ、高次さんが来るから」
そう言って出てゆく玲二の後ろ姿をただ、志月は見送るしかない事が悔しかった。
玲二と入れ違いに、雅臣がノックをして入ってきた。
「玲二君来てたんですね、どんなお話をしていらしたのですか?もしかして、貴方のフォローの件で?」
ショッピングバツグを手に、にこやかにソファーに腰掛ける。この主治医は志月の部屋を自分の部屋と勘違いしているらしい。
この敬語の美人医師は慇懃無礼であった。
「イヤミを言われました、仕方ありませんね」
溜息をつきながら俯く志月に雅臣は微笑みかける。
「気にしなくていいですよ、あんなのは高次さんの犬コロでしかないんですから、あ、猫か、うんネコだ、ははは・・・」
なにがそんなにおかしいのか、志月は解らないが、この医師は用があってここに来たであろう事は解る。
「なんの御用でしょうか」
ああ、とショッピングバッグを差し出す。
「渡英したのは15の時・・・こういうのは身につけておられないでしょう?」
手渡されたのは、女性物の下着一式である。
「ええっ」
驚く志月の背後にまわり、背中に触れて、雅臣は頷く。
「ほら、いくら人前で衣服を取らないとはいえランニングとかはやめてください。夏場は透けて移りますよ、一応深田家の令嬢なんですから」
そこまでしないといけないのか・・・志月は深刻になってしまう。
「大丈夫ですよ、無理の無いように、ブラスリップにしましたから。それと、パット入れてくださいね、胸板の厚さを
ごまかすためですから。あとストッキングも履いてください、スカートの下の生足が気になりますんで。幼い頃はよかったとして
20歳なんですよ?」
女装も楽じゃない・・・改めて実感した。
「あと、体型を隠すファッションコーディネイトは私がいたします。お身内以外で貴方の事を知るのは私だけですから
女中達には任せられないでしょう?それに生まれた時から、ずっと貴方の管理をしてきたのは私なんですから」
病気になっても、志月は病院にいけない、医師に躰を見せることができない、学校の健康診断も、保健体育も、水泳の授業も全て
深田の家の圧力でパスしてきた。この非常識な理屈を強引に押し通す、異常な主治医に何度も助けられてきた。実は雅臣無しに
今の深田志月令嬢は存在しないのだという事を、志月も自覚している。頷いて受け入れるしかないのだ。
「その代わり・・・」
と雅臣は志月の腰に手をまわした。
「下はなにをつけても差し支えありませんが・・・くれぐれも、勃てないようにしてくださいね。やはり体に正比例するのか
女装には不利なサイズなんですよ。サポートタイツでも履けばなんとかなりますかねえ・・・できれば志月さんを
屋敷から遠ざけておきたかったというのが本音ですが、どのみち、いずれは貴方は深田家とナルシス・ノワールを担う運命ですから
お覚悟なさい」
志月にはその言葉の意味が解らない。自分は娘となっており、当然長男の高次が次期当主となるはずである。
雅臣は志月を抱きしめた。
「強くなってください、そして密かに学んでこられた経営学を活かして実力を育ててください。
でなければ、貴方は貴方自身を救えないし、誰も救えない」
このいつもおどけている主治医の、いつになく真剣な表情に、志月は来たるべく未来をぼんやりと悟った。
素材提供StarDust
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