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「いい加減にしてください」
興奮して立ち上がった甲斐を、忠は縋るように見上げる。
「頼む、真剣に頼んでいるんだ。これはお前と武田の為でもあるんだぞ」
甲斐は言葉をなくし、項垂れる。知っていたのだ、史朗は自分よりも大きくなれる事を。
いつか自分が、史朗を手放さなければならなくなる事を。ただ、認めたくなかっただけだ。
和真に就けば、史朗は自分の傍にいるよりもっと多くの能力を発揮できるだろう。忠の提案は
史朗にとっては悪いものではない。
「このままだと、お前は壊れる。今の武田の隣にいる甲斐義之は偽物だ、いつまで演じ続ける気だ?
本音を晒せずに愛が成就するとでも思っているのか、武田も、いつもそんなお前に不安を感じている。恋人を
不安にさせて、それで愛していると言えるのか?」
忠には全てがお見通しだ、しかし、仕方がないではないか・・・史朗の太陽でいるために、神でいるために肩肘張って
苦しくても、それでも嫌われたくない、愛されたい。本当に史朗を愛していて、史朗だけは離したくないのだから。
「いけませんか?貴方は正しいです。貴方は、愛する者のために自分を捨てられるそんな方です。でも、俺は違う」
甲斐の頬を涙がつたう、解っていた、史朗をいつも不安にさせている事。好き好きオーラ全開な史朗に対して、自分は
愛情表現が希薄で、温度差を感じさせていることを。しかし、嫉妬したり激情を見せる事が甲斐には出来なかった、史朗に
のめり込んでいる自分を隠そうとした。みっともない姿を見せると嫌われそうで・・・・
「甲斐」
忠はゆっくり立ち上がって、甲斐を抱擁した。
「犠牲になるのではなく、お前が解放されるために、だ」
「松田さん、和真さんとは?」
忠の腕の中で、甲斐のくぐもった声がする。張り切った肩肘が急に緩んで、上司の忠に心を預け始めた。
「何もないよ。あいつは俺が育てたようなものだ。息子と同じような・・・いや、違うな・・・好きすぎて、手も出ない
というのが正解だ。お兄ちゃん大好きの今のあいつに嫌われるのが怖い。それになんて言うんだ?実は俺、お前の父の愛人で
隠し子じゃないんだ。だから血の繋がりないから、寝ても平気だよ〜ってか?口が裂けても言えない。言うつもりもない」
忠にそんな純愛があるとは思わなかった。甲斐は忠の腕から離れて、顔を上げる。
「そんな大事な和真さんを、史朗に預けるというのですか?」
「武田なら、和真を守れると確信している。和真は感情をストレートに出す、まっすぐだ。まるで大型犬だ
武田がうまくリードすればうまくいくはずなんだ」
何を根拠に、そんな話を自信有りげに話すのか、甲斐には解らない。
「和真さんはノンケではないのですか」
男が男を好きだという確率は低い。それなのに和真に史朗をキャスティングする理由が、どこにあるのか。
「これはあくまで、俺の勘なんだが、男だとか、女だとか関係なく、和真は武田に惚れると思う」
その勘が確かなのかどうかは解らないが、史朗の能力を十二分に活かすためには忠の言うとおりにするべきだと
いう事は解る。別れる云々かんぬんは別として。
「甲斐は俺が連れて行くから心配するな。俺は養子縁組も、支倉の後継者の位置も反故にされたけど、孝雄さんは
財産分与という名目の慰謝料と手切れ金をくれたから、それを元手にホテル業界に乗り込む。お前はそこで
俺の右腕として働け」
忠についてゆく事に依存はないが、どうしても史朗と別れろという指示には答えられそうにない甲斐は溜息をつく。
「史朗の事は納得できません。何故、和真さんの相手が史朗でなきゃならないんですか?」
勘と言われても、信じられるわけがない。
「俺は和真を誰よりも愛している、命に変えても。その俺が何年もかけて全身全霊かけて考え抜いた結果なんだ」
本人は大真面目なのだろうが、甲斐にはギャグでしかない。こんな根拠の無い非論理的な結論を出す忠では無いはずだ。
しかし、確かに言えるのは、忠は和真に対しては自分の犠牲だけでは飽き足らず、支倉の社員の人生までも躊躇うことなく
犠牲にしたということだ。そこまで盲目に愛している。
「史朗の事はどうでもいいと言うのですか」
はあ・・苦笑して忠は再びソファーに座る。
「何度言えば解る、これは武田のためにもなるんだ」
仕事面はそうだろうが・・・
「俺といると史朗はダメだという事ですか?」
煙草を取り出し火をつけて吸い始める忠に、甲斐は食下がる。
「ダメではないが、自然体になれない。お前が武田を不安にしているからだ。まあ、年下の部下相手に好き好きモード全開は
難しいだろうが、閨にポーカーフェイス持ち込むのはどうだろうか」
「見たような事を言いますね」
痛いところを突かれて、少し甲斐はヒステリックになった。
「見てなくても解る。お前のそういうところ孝雄さんにそっくりだ。俺はそういう、がっつかないあの人が高貴で上品に見えて
惹かれた。愛人というより、父のように思えて好きだった」
しかし、孝雄は忠が自分に父親を見ていた事に失望していた。彼は穏やかな外側に、熱い想いを隠していたのだ。
激流のような忠への想いを隠し、大海のような穏やかな愛でコーティングしてしまった為、その温度差に苦しんだ。
いっそ、忠が孝雄に対して情熱的だったならよかったのだが、そうはならなかった。
「だから、好き好きモード全開だった大学生のお前とうまくいってたんだと思う」
支倉の屋敷で会った甲斐は、今のように肩肘張ってはいなかった。まるで犬コロのように孝雄に懐いていた、忠はそちらが
甲斐のもともとの姿なのだと思う。テーブルに置かれている冷え切った紅茶のカップを差し出し、忠は甲斐に再びソファーに
着くことを勧める。
「紅茶飲んで落ち着け。冷めてるけどお前、猫舌だったよな」
カップを取った甲斐は言葉をなくした。忠は何故そんな事まで知っているのか・・・事実、カップの紅茶はちょうどいい具合に
冷めていた。
「武田は知っているか?お前が猫舌だって」
「言っていません。わざわざ言う事でもないし」
それだけでは無い、甲斐は史朗の前では熱い物を無理して飲み食いしていた。お子様だと思われたくなかったのだ。
「スイーツ好きなのは?」
「それは、バレたので・・・」
と言うか、何故、史朗も知らない事実を忠は知っているのか?
「お前だけの問題じゃない。武田がそのことで苦しむから言っているんだ。これを機会に俺も孝雄さんと別れた、あの人を
開放するために」
忠のその言葉に甲斐は色めきだった。
「孝雄さんを開放する?自分を開放したの間違いではないのですか?貴方は孝雄さんを愛してはいなかった。ただ身売り
していただけなんだから・・・」
ふーっ煙を吐いて忠は、灰皿で煙草をもみ消すと、まっすぐ甲斐を見つめた。
「愛していたよ、俺にとってあの人は敬愛する父親だった。今も、これからも俺の中では、あの人は特別だ。ただ
あの人の俺への愛は、息子に対するものではなく、恋人のものだったから、つらい思いをさせてしまった。お前と
いた頃は癒されていたと思うよ、だから、俺じゃ駄目なんだ、俺といるとあの人はずっと辛い思いをする」
何故、忠は孝雄を愛せなかったのか、愛せさえすれば、孝雄も忠も幸せだったろうに。そして何故、自分は孝雄を
愛したのか・・・それゆえに忠と孝雄の間で微妙な関係になってしまった。甲斐は俯いてため息をつく。
「孝雄さんのところに戻ってもいいぞ?お前は支倉から抜けるんだから」
社内に恋人は置かない、そう言って甲斐は孝雄から別れを切り出された。確かに昇進をねだられたりして、会社経営に
支障が出る、人事が客観的に行えないなど不利であるからだ。しかし、それだけでは無かった事を甲斐は知っている。
「駄目ですよ。俺はあの人に愛されていない、あの人が愛しているのは松田さんだけなんだから」
身体を重ねれば重ねる度、その事を実感させられた。
「すまなかった。とにかく考えてみてくれ」
そう言い残して、忠は席を立った。