「忠いいのか、これで」

支倉商事の社長、支倉孝雄は松田忠のマンションに入るなり、そう呟く。

「もちろんですよ」

来るという知らせを受けて、寝室にワインを準備していた忠が、出迎えて微笑む。

「若社長の誕生です、お祝いしましょう。ワインになさいますか、それとも」

孝雄の上着を受け取り、ハンガーにかける忠に孝雄は解いたネクタイを手渡す。

外腹の子と、正妻の子のどちらを後継にするべきかを争った通称、関ヶ原の戦いは

正妻の子である支倉和真の勝利によって幕を閉じた。敗北した忠は、しかし嬉しそうに笑っていた。

「先にシャワーする」

そう言って浴室に向かう孝雄を振り返り、忠はその背に問いかけた。

「今日はお泊りですね」

「最後だからな」

そう一言残し、孝雄は浴室に消えた。最後の夜、もう明日から孝雄は忠のパトロンでなくなり

忠は孝雄の愛人でなくなる。

小学生の頃、両親を交通事故で同時に亡くし、忠は施設で育った。成績は良く、いい大学にも

入れる学力であったにも関わらず、学費を出してくれる両親がいないという理由で高校を卒業後

就職しなければならなかった彼に、救いの手を差し伸べたのが、支倉孝雄だった。

ー大学に行かせてあげよう、いずれは私の養子にして会社を継いでもらう、その代わり私だけのものになって欲しいんだー

高校にも、施設にも内緒で高級ラウンジのウェイターのアルバイトをしていた忠に、客として来ていた孝雄はそう言った。

あれから十数年経つ。

養子になる事も、支倉の後継者になる事も叶わなかったが、自分で選んだ道だ、後悔はない。

「お前は?」

浴室から出てきた孝雄がバスローブ姿でやってくる。

「シャワーは済ませましたよ、孝雄さんが来る前に」

訪問の知らせが来れば、酒を準備をして、シャワーを済ませて待つ。これがパトロンを持つ忠の日常だった。

ただ、今夜はいつものバスローブ姿ではなく、黒のシルクのシャツに黒のスラックスという出で立ちだったから

孝雄はそう訊いたのだと思われる。

「一応、最後なんで、正装とまではいかなくても、気を使ったんです」

その言葉に嘘はない、がもう一つ、黒尽くめなのは男娼としての自らを葬るための喪服でもあった。

寝室のソファーに腰掛け、孝雄は渋い顔を忠に向ける。

「その・・・最後にしないといけないのか?」

50代後半の、長身で体格のいい孝雄は、彼の一人息子の和真にどこか似ていて、人らしいぬくもりを感じる。

忠はそんな彼に、今はいない父の面影を見ていて、あの時すんなり愛人契約を結んだのだ。

高校では男子校であったためか、忠は後輩に人気があり、下級生と付き合ってもいた。ので、男同士、というものには

抵抗はなかった、が、長身で世話好きな包容力のある忠は攻めだった。そして自分自身、それを自覚していた。のに

年上の男の愛人になった。忠にとっては孝雄は父で、頼れる存在だった、事実、尊敬していたし、弱音を吐ける唯一の

人物でもあった。ただ、孝雄が自分を愛している種類の愛情を、孝雄に捧げる事はできないと知っていた。

「いつまでも続けていられないでしょう?和真に知られないとも限らないし、俺はあいつの腹違いの兄のままでいたいんです」

そう言って笑うと忠はグラスにワインを注ぐ。

「怒っているか?そうだな、約束を破ったのは私だからな」

忠からグラスを受け取りながら、孝雄はため息をつく。

「仕方ありませんよ、不妊の奥方の奇跡の妊娠、出産。これは貴方のせいじゃない、それとも不妊の奥方を孕ませる事が出来た

貴方の子種の強さを評価するべきでしょうか?」

はあ・・・グラスを手に孝雄はしょんぼり肩を落とす。正妻に浮気がバレて怒られているような気分だ。

「怒ってません、私がここまで来れたのは孝雄さんのおかげなんですから。貴方が甲斐と浮気してた時も暖かく見守っていたじゃ

ありませんか?」

確かに忠は嫉妬してはいなかった。むしろ自分が孝雄の相手をしなくて済んだ事にホットしているようだった事も孝雄は知っている。

「だから、辛いんだ。想い人には想われず・・・あ、甲斐とは別れたから」

知っていますよ・・・忠は苦笑する、いっそ孝雄が浮気者の悪人なら気持ちが楽だった。彼は生涯を通して忠を一途に愛し抜いた。

甲斐との事は忠を和真に取られた一時の気の迷いだったのだ。

しかもその甲斐義之は、付き合っている男の会社とも知らずに、支倉商事に入社していた。そして、しばらくは気づかないまま

社内でばったり会って知ることとなる。まさか、社内に実の息子と愛人と恋人を置いておくわけには行かなかったし、社内

恋愛は自らタブーとしていた事だったので、甲斐とは別れた。

その後、甲斐は部下の武田史朗と付き合っていると忠から知らされたが、孝雄にはなんの感情も湧かなかった。

それだけの関係だったのだ。孝雄にとっては甲斐との事はただの一時的な火遊びでしかなかった。

いづれは忠のもとに戻るつもりのアバンチュールだったのだ。

「まったく・・・甲斐も可愛そうですね、あいつはかなりマジだったんですよ?ショックで枯れ専のあいつが

年下に手を出して、しかも攻め!もうリバってますよ?」

それは俺のせいなのか?と訊きたいところをグッと堪えて孝雄は忠の顔を覗き込む。

「お前はどうなんだ?お前も甲斐に一目惚れしてたんだろう?」

一瞬こわばった顔を笑顔に変えて、忠は笑った。

「そんな事言いましたか?」

「言わなくても解る」

そう、忠の事ならなんでも解る。孝雄自身が忠に一目惚れして、ずっと片思いしていたのだから。

「すまない、やはりもう、お前のことは自由にするべきだな。会社はやれなかったが、遺産の前払いという名目の

手切れ金を振り込んでおく。愛人契約の違約金も兼ねてな」

そう言って孝雄はワインを一気に煽った。

「感謝します、それを元手にホテル業界に乗り込むつもりです。支倉商事の社長よりも、もっと大きくなって見せますから。

そして、和真のことは影でサポートし続けます、引退しても安心してください」

忠は知れば知るほどいい男だ、付き合えば付き合うほど惹かれてゆく。孝雄は自分が本当に忠を愛している事を、今一度実感した。

「お前は俺の器には入り切らない、だからこれでよかったんだな」

忠は孝雄の後ろに回り込むと後ろから抱きしめた。

「すみません、傍に居て差し上げられなくて。でも、今まで幸せでした、父親ができたみたいで・・・」

「父親なんだな、お前にとって俺は」それが忠の負い目である。決して彼にとっては、孝雄は恋人になれない。慕い、敬愛はするが、欲情する相手ではないのだ。

好きな相手であっても、攻めの忠が孝雄の愛人でいることは難易度が高い。父親のような孝雄に抱きしめられ、撫でられるのは

嫌いではないが、生殖器が反応しない。これは忠がいつも孝雄に申し訳なく思っている部分で、こっそり自分で刺激を与えて無理に

勃たせている。いっそ好きでもない相手と、ただ快楽だけに流される性欲処理だけの行為の方がどれだけましかわからない。

それでも、陵辱されているというような屈辱感はない。愛されているという実感はある、だから今まで続いてきた。

「もし、この先、私に恋人ができたとしても、父親は孝雄さんだけですよ」

忠は前に回り込んで、孝雄にくちづける。

「いいや、知っていたよ、お前が私に欲情しない事は。お前は私では満足できない、それなのにお前は一度も浮気したことはなかった」

「心外だなあ、ちゃんと毎回抜いてますよ?」

目を逸らして、忠は孝雄をベッドに導く。

「自分の手でだろ?」

すでにバレているだろうとは思っていたが、こうはっきり言われては行き場がない。ベッドに腰掛けると忠はスラックスを脱ぎ落としシャツの前を

はだけて孝雄を誘う。

「いいえ、貴方の口内でもイケてます、というか、そういうこと気にするなんて本当にいい人ですね」

忠は知っている、アルバイトで知り合った金持ちのオヤジとの援助交際をやめさせるために、孝雄は忠を愛人にした事を。

学費のためとは言え、そんな事を続けていたらどんどん深みに嵌りこんでいたに違いない、確かに良心的な孝雄の愛人でよかったと

今でも思う。養子にはしてもらえなかったが、財産分与してもらえて、先の目処もついている。それより何より、最愛の和真を

支倉の社長に据えられた事が何より嬉しい。

覆いかぶさってくる孝雄を受け止めながら、忠は首筋にしがみつく。

「貴方と出会えて幸運でした。でなきゃ今頃どうなっていたか・・・」

あの頃は、のし上がりたかった。そのために必要な財力を得るためにしていた援助交際の罠に嵌るのは時間の問題だった。

孝雄の事はバイト先の店の常連だったから、よく知っていた。支倉商事の社長である事、そして結婚している事、子供がいないこと・・・

だから、あの時は驚いた、忠は今まで、バイセクシャルに出会った事が無く、周囲にもいなかったから。

それでも、なんとなく夫人とはレス状態の仮面夫婦ではないかと思っていたところを、奇跡のご懐妊。少し複雑になったりもした。

それも過去の話だ。

「奥さんとはどんな感じなんですか?やはり男とは違いますよね?」

女を知らない忠の愚問に孝雄は苦笑する。

「男とか女とか関係なく、私はお前が好きだったよ」

「俺も、一番慕わしい人は孝雄さんしかいませんよ、多分敬愛してる」

敬愛ーあまり嬉しくない好かれ方だった。孝雄はさらに苦笑する。

「敬愛してる相手と寝ても、盛り上がりにかけないか?」

「でも、その分、特別な関係でした」

それは本当だ、嘘ではない。この後、忠がどんな男と付き合ったとしても、孝雄の代わりはいない。本人はそれが不満だとしてもだ。

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