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夜景を眺めていた甲斐は、部屋に入ってきた史朗を振り向いて出迎えた。

「史朗、久しぶりだな。今まで音信不通ですまなかった」

昔と変わらない笑顔に史朗は、視界が霞んでくるのを感じた。自分でも気づかなかったが、かなり強がって

いたらしい、安心したら涙が溢れてきた。

「本当にすまない、お前を一人にして。でも、もう一人じゃないんだから泣くな。お前はもう甲斐の虎じゃなく

支倉の虎になったんだから」

そう言って史朗をテーブルの前に座らせた。史朗がロビーに現れると、ロビーから連絡が行き、ルームサービスが

届く事になっていて、史朗がやってくる少し前にテーブルはセッティングされていた。

「レストランで忠さんが和真さんとお食事されている、とりあえず俺たちも食事しよう、それから話だ」

甲斐はナイフとフォークを取り、ステーキを切り始める。史郎もハンカチで涙を拭き、心を落ち着けてから食事を始めた。

「玲二から聞いたんですが、松田社長と・・・」

「ああ、長い間、体だけの関係で、すれ違っていたが、ようやく相思相愛になれた」

史朗の問いに、淡々と事もなげにそう答える甲斐に、史朗のフォークを持つ手が止まる。

「あ〜気にするな食え。正確には、お互い、自分は相手にとって身代わりでしかないと勘違いしていたという事かな

俺は忠さんを史朗の代わりに、忠さんは・・・」

そこまで言って甲斐は言いよどんだ。史朗はどこまで知っているのか探るためだ。

「和真さん・・・ですか?松田社長は和真さんを命懸けで愛している、そう玲二が言っていましたが・・・」

「そうだな、あの人にとって一番は支倉和真かもしれない。でも、2番であれ、3番であれ、忠さんは俺の事を愛している

だからそれでいいし、俺も、忠さんをお前とは別の愛情で愛している。それでいいだろう?」

ええ・・・頷いた史朗の顔が、意外に晴れやかで幸福そうなのに安心しつつも、一抹の寂しさを甲斐は感じた、そして

そんな自分に呆れていた。

「私との愛情は何で、松田社長との愛情は何なのか聞いてもいいですか?」

そう訊いた後、史朗は苦笑する、相変わらず甲斐の前では部下になるらしい。そんな自分が少し可笑しかった。

そして、そんな史朗を見て甲斐も大笑いした。

「お前との時は肩肘張っていた気がする。お前があんまり俺を、理想の上司みたいに崇めるから、いつもかっこいい男で

いたかったし、弱みも見せたくなかった。これも惚れた弱みだと思ってくれ」

それでか・・・史朗は頷く、自分に本音を見せなかった甲斐を寂しく思っていたが、自分は実は愛されていたのだ。しかし

それでは疲れるだろう。

「忠さんは・・・ただ、甘えられる。支え合う先輩と後輩みたいな」

「私とは上司と部下で、松田社長とは先輩後輩ですか?」

それは甲乙つけ難いと史朗はぼんやり考える。ただ、甲斐が今、自然体でいられて、無理していない状態なのはよく解った。

「史朗はどうだ?」

先ほどの甲斐の喩えで史朗も、やっと和真と甲斐の違いが分かった。

「私は、あの時、甲斐さんに本音で接して欲しかったんだと思います。あの頃の甲斐さんは私に一線を引いているようで

寂しくて不安で・・・だから追いすがるような感じでした。和真さんは、そう、犬みたいですね、大型犬。嬉しいと尻尾振って

悲しいと耳がこう、ショボンと垂れ下がる。だから、安らげて、安心できるというか」

スープを飲み始めた甲斐は再び大笑いした。

「じゃあ、支倉社長は犬で・・・俺はさしずめ、猫か?」

当たらずとも遠からずだ。自分の情事を決して表に表さず、突然史朗の前から消えてしまうあたりが。

「でも、お互い無理のない相手に出会ったんですね」

そうかもしれない。背伸びした恋が終わり、穏やかな愛にたどり着いた、そんな気がした。それが自分だけではなく、史朗も

そうだという事が、甲斐は嬉しくてたまらない。

「それでもな史朗、俺はお前に嫌われるのが死ぬほど怖い程、お前の事が好きだったんだ。それは本当だ」

そう言って甲斐はワインを飲む。

「何があっても嫌いませんよ、甲斐さんの事。あんな逃げられ方したのに、8年間待ち続けるくらい好きでした。和真さんに出会わなければ

一生忘れられなかったかもしれない」

この史朗の告白は、甲斐を深い自責の念に追い込む。甲斐自身、史朗だけは死んでも離したくなかった。

「信じていたんだ。支倉社長は、お前の最愛で最後の恋人になれるって」

「どういう論理ですかそれは・・・」

呆れる史朗に、甲斐はワインボトルとグラスを持って、ソファーに移動することを勧める。

「食事を終えたら、そっちに移動しよう。その話をしに来たんだが、少し長話しになる」

突然、甲斐の表情が深刻になったのを感じて、史朗は緊張する。フォークを置いてナプキンで口元を拭くと、甲斐の座るソファーへ

歩いて行った。

「これからは呼ぶまで誰もこの部屋には近づかない。これから聞く話は、誰にも言うな、そして忘れろ」

「それは穏やかではありませんね、もしかして和真さんに関わる事ですか?」

向かい合って座った史朗が身を乗り出す。

「そうだな、そういう事になる。まず最初から順を追って話そう、忠さんと和真さんは血が繋がってはいない」

確か腹違いと聞いていた史朗は、甲斐を見上げた。

「忠さんは和真さんのお父さん、支倉前社長の愛人だった。そして能力を買われて、支倉の後継者となるために養子縁組を約束されていた。

そこに、不妊と診断を受けていた支倉夫人が身ごもり、あろう事か男の子を産んだ」

確か、支倉前社長は政略結婚で、不妊の妻を迎え、後継者は妾の子がなるはずだったところに、奇跡的に和真が生まれたと史郎も聞いた。

「和真さんは、支倉前社長の実の息子なんですよね?」

史朗の言葉に甲斐は頷く。

「正確には、あの人はバイ・セクシャルだ。つまり両刀。男、女、どちらも抱ける。お前が何を考えているかは判るよ。俺は支倉前社長の

愛人だったからな。和真さんはちゃんとDNAの検査も受けて、認められた支倉の正統な後継者だ」

しかし、なら、忠にとっては和真は邪魔者なのではないのか、なぜ献身的な愛を注いでいるのか、史朗は首をかしげる。

「実の子が生まれても、支倉前社長は忠さんを手放せなかった。副社長の位置を与えるという条件で、そのまま関係を続けていた。

そのうち、和真さんが忠さんに懐きだしたんだ、忠さんも利口な可愛い和真さんを肉親のように愛し始めた。忠さんは幼い頃に両親を亡くして

天涯孤独な身の上だったから、和真さんに依存した」

和真の忠に対する兄弟愛は今も変わらない。確かに、そんな和真に忠とは血が繋がってはいないなどと、言えるはずはない。そこまで考えて

史朗はハッとした。

「もしかして、関ヶ原は和真さんに支倉を譲るためのデモンストレーションだったんですか?」

甲斐の部下を窓際に押しやり、自分と甲斐を引き裂いたあの関ヶ原が、仕組まれたものであったのでは・・・史朗は愕然とした。

「忠さんはあまりに優秀過ぎた。重役の支持も得て、いくら忠さんにその気がなくても、後継者問題は先に進み出してしまったんだ。

今更、社長の実子ではないなどと言えるわけもなく、忠さんが去ったところで、残った者は和真さんについてくるかどうか怪しい。

何よりも問題なのは当時の和真さんだ。社長の椅子には興味を示さず、兄に譲ると言って聞かない、能力はあっても自身がない

だから、和真さんは派手に忠さんと戦って勝たなければならなかった。忠さんは和真さんのためだけに、わざと敗北者になった」

そんなこと・・・史朗には思いもよらない。忠ほどの男が何故、自らすすんで、あんな惨めな敗者の汚名を着たのか・・・

そこまで彼は和真を愛していたというのか?

「言っておくが、忠さんは支倉の後継者になるために、好きでもない男に抱かれていたんだ。あの人はもともと受けではなく攻めだ。

俺が社長と不倫していたのとはわけが違う。そうまでして、あの人は和真さんを愛していたんだ。だからこの事は誰にも知られたくない

特に和真さんには。もしばらそうとする奴がいたら、あの人は殺しかねない」

だんだん忠の和真への想いが恐ろしくなって、史朗は俯く。

「じゃあ、なんで私にこの事を?甲斐さんは、松田社長の許可を得て私に、この話をしてるんですよね?」

忠の恋人というからには、甲斐は忠が困るような事はしないはずだと史朗は思う。

「もちろん、お前に話せと言ったのは忠さんだ。あの人はお前に和真さんの全てを委ねて、和真さんから手を引くといった。だから

もし、和真さんの耳にこのことが入ろうとした時は、全力でお前が阻止しろ」

もちろん史朗も、和真がこの事を知る事は避けたいと思う。それは嫉妬だ、和真と忠の間には入り込めない絆を感じている。

もし、和真が、兄と思っていた忠が、赤の他人で、しかも忠が全てを捨ててまでも自分を愛していると知ったら・・・・捨てられるかも

しれない恐怖に史朗はおののく。

「私にとっても、それは不利な情報ですから、もちろん死ぬ気で阻止しますよ」

ふうん・・・甲斐は驚いた。忠の思惑通りの反応を史朗がしたのだ。

「でも、松田社長は和真さんの事、弟のように愛しているのですか?それとも・・・」

そこが一番気になる。忠が和真を恋愛対象として見ていたら、このネタを封印しても、史朗に勝目はない気がした。忠の和真に対する愛情は

史朗が捧げる愛情より、はるかに強い。さらに和真にとって、忠は特別な存在である。忠が上手くたらし込めば、和真はイチコロだろう。

「さあな・・・だが、安心しろ、和真さんが迫ってきても、泣いて頼んでも、あの人は絶対、和真さんと性関係を結ばない。そんな感情を

和真さんに持つこと自体、汚らわしいと思っている。でも、半面触れたくてたまらない、だから思春期の和真さんから離れるために支倉の家を

出た。かなりムカつくけどな、それって。手出しできないほど愛している存在とかって、どうだ?」

まるで聖女・・・女神様扱いだ。史朗は甲斐の胸の内を察する。

「な、お互い、この事は闇に葬るべきだろう?」

と甲斐にテーブル越しに肩を掴まれた。

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