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史朗は時計を見た。そろそろ会議は終わり、日下と和真は帰ってくるだろう。
「菊川、ひとつだけ聞かせてくれ、お前は松田さんから指示を受けているのだろう?
それなら甲斐さんは今どこにいる?」
「それ聞いてどうする気?甲斐さんの事は忘れろ、知っていても教える気はないから。
大体、そんなにいつまでも思われ続けても甲斐さんも迷惑じゃないかな」
あまり期待してはいなかった、そう簡単に甲斐の居所がわかるはずはないと思っていた。
そして、知ったとしても、史朗にはどうしょうもない事だ。逢いにいったところで甲斐が
逢ってくれるとも思わない。もう、終わった、置き去りにされたのはそういう事なのだ。
「何?そんな辛そうな顔しないでくれる?新しい恋でも見つけろって事だろ?」
新しい恋・・・そのキーワードに、史朗の脳裏に和真の面影がよぎった。そしてその事に
動揺している自分を持て余すのだ。その時、ドアが開き、和真と日下が顔を見せた。
「お、武田、おとなしくしていたか?」
日下の満足そうな表情に、玲二は無邪気に笑いかける。
「はい、僕がちゃんと引き止めておきましたから」
さっきまでのスレた様子は微塵もなく、誠実であどけない菊川玲二の仮面を見事に被るこの忍に
史朗は驚異を覚えた。
(本当にこの男は信じられるのか?)
彼が和真の傍にいることに不安を感じる。たとえ和真が忠を信頼し、彼のよこしたサポーターを
信じているとしてもだ。
「それにちゃんと、お願いしておきましたよ。武田さん、こちらに来てくださいますよね?」
やはり目が笑わない、黒い笑みを史郎に向けてきた。和真が心配なら、傍で守れと言わんばかりだ。
この男はほうってはおけない気がした。少なくとも、和真に忠誠を誓っているわけではなく、忠の忠犬なのだ。
どう転ぶかはわからない。忠の指示がなくとも、忠を守るためなら、躊躇うことなく彼は和真にも牙をむくはずだ。
「分かりました、来週からよろしくお願いいたします」
史朗は支倉和真を守る決意をした。
「今からでもいいけど?」
満面の笑みを浮かべ嬉しそうにしている和真の笑顔が眩しい。まるで主人に擦り寄ってくる子犬のようだ。
「いえ、辞令には来週からとありましたし、たかが庶務でも引き継ぎとか色々ありますので」
それまで待ってろー 史朗は玲二を威嚇した。史朗がやっと、やる気になった事に玲二は満足げに微笑む。
切り札なのか、爆弾なのかわからない、得体の知れないものを抱え込んでいる和真を、史朗は見過ごせない。
それを見越しての玲二の策略だと言うことも知っている。わざと史朗と二人きりになり、本性を晒したのだ。
そうすれば史朗は必ず、和真の傍に来ると。その事は忠にも報告されるだろう。
忠は甲斐を右腕にしているはずだ。もう忘れなければならないのだろう。庶務課でくすぶっていたのは
甲斐を忘れられなかったから。社長秘書になると決めた今、もう忘れる時なのだ。社長室を出てゆく史朗を和真は追う、
廊下で腕を掴まれ階段の踊り場に連れ込まれた。
「あの、こんな無理矢理な事して・・・怒ってるか?」
ふっー笑いが漏れた。こんなお人好しで社長が務まるのだろうか。兄の忠が案じるのは無理も無い。
「貴方のせいではないから、気にしないでください。私の意思で秘書になる決意をしたんですから。でも、あの菊川には
気をつけてください」
「あ、気付いた?あいつ兄さんのよこした忍びだ。お前が来てくれなかったら、あいつに日下の後任せる事になってたんだが
何考えてるかわからんから、俺は不安だったんだ。でも八割くらいは信用できるから、使ってるんだけど、お前が来てくれてマジ良かった〜」
大体の事は判っているようなので史朗は安心した。
「でも、あとの二割が爆弾に変わる事もありますから」
菊川はおそらく、松田忠の愛人だ。単なる主従関係ではない事が厄介なのだ。痴情のもつれでどちらにも転ぶ・・・
「最近お兄様にお会いになられましたか?」
人事で飛ばされた支倉の地方支店を退職し、今はホテル王として名を成していることは史朗も知っていた。
「ああ、ルナ・モルフォで会食商談した時に偶然に」
それは偶然ではないと史朗は確信する。菊川を通して和真の全ては筒抜けだろう。
「どんなお話をされましたか?」
その土台の上に、忠は和真から必要な内容を聞き出したに違いない。支倉カンパニーは今もなお
松田忠の手のひらの中にある。
「別に、世間話だ」
兄弟なのだから家族的な話もありだろう、ましてや和真が唯一信頼している家族なのだから。
「私の事は?」
いや・・・首を振る和真の視線が微かに漂った。おそらく話した、休日にともに夕食を食べているなどという話を・・・
史朗はしばらくためらったあと、思いきって口を開いた。
「甲斐さんの事は?甲斐さんは一緒ではなかったでしょうか?」
忠がルナ・モルフォにいるのなら、甲斐もそこに携わっているはずだ。秘書、それとも経理・・・
「いや、いなかった」
今度はきっぱりと答えた和真を、史朗は信じてしまった。この時、和真は必死だったのだ。
やっと手に入れた甲斐の虎を逃すのが嫌で嘘をついた。どうせ、甲斐は史朗と連絡を取るつもりはないのだから
史朗に甲斐の居所を伝えなくてもいいと。いや、伝えたくなかった、忘れて欲しかった。甲斐の事は忘れて
自分だけを見て欲しかった。やっと傍に来てくれようとしているところに、水を差すようなことはしたくなかったのだ。
「甲斐さんの名前さえ聞かなかったな・・・ルナ・モルフォじゃなくて他の仕事してるんじゃないかな」
そこまで言うと嘘くさいかなと思いながら、和真はあえてそう言った。自分だけを見て欲しいという和真の想いを
史朗は察して頷く。もし、甲斐がルナ・モルフォにいたとしても、史朗の前には姿を現さないだろう。そう
もう甲斐には逢えないのだ。
「私は今を生きてゆきます、貴方を守りながら。そう決めました」
それが甲斐のためであり、自分のためでもあり、和真のためでもあるのだ。だんだん自分の中で大きくなってゆく
和真の存在に怯えつつも、史朗は一歩前に踏み出す。
「ありがとう!」
いきなり無邪気な少年のように、和真は史郎に抱きついた。本来の支倉和真は、多分こんな姿なのだろう。そして
兄である松田忠はこんな彼を、ずっと守ってきたのだろう。しかし・・・様子は少年のようだが、実際は大きな和真の身体が
史朗に覆いかぶさっているという、あまり他の社員には見せたくないものだった。すっぽりと包み込まれた史朗は和真の胸の中で
動揺する、甲斐は徹底して社内でのスキンシップは避けていた。それは二人の関係を他人に隠すためである。会社ではあまり
史朗の目を見て話すことさえなかった。どこまでもクール・・・史朗は甲斐をそう認識していたが今ならわかる、そうしなければ
自分が抑えられなくなるからなのだ。少しの接触で、合わせた視線で、想いが湧き上がる。身体が熱を帯びて欲情する。
今の史朗のように・・・未だに、創立記念日の過ちの微熱を持ち続けている史朗の身体は和真の抱擁に反応する。
自分がこんなにも快楽に弱いとは思いもよらなかった。気づけば和真の背に腕をまわし、頬を寄せていた。
「あっ」
先に飛び退いたのは和真だった、身体がびくりと硬直したのを史朗は見逃さなかった。
「すまん、つい・・・大人気ないことを」
耳まで赤くしてうつむいている。本当に犬ころのように可愛いと史朗は思う。
「いえ、私こそ。驚きました?社長が可愛くてつい・・・」
ああ・・・史郎に抱きしめられた事を思い出し、和真はパニック状態になる。本来なら、可愛いと言われて
怒るところなのだが。和真の余裕の無さをみて、史朗は逆に余裕が溢れ出てきた。
「いいんですよ、私には甘えても。だって、社長秘書じゃないですか?」
小悪魔的に和真の肩を抱き、そう囁く。蛇の道は蛇・・・同じ穴の狢・・・自分も菊川と、そう大して変わらない事を自覚する。
上品ぶっても所詮は男を受け入れた身ー 無意識に、和真を翻弄して楽しんでいる・・・
ーいつか食うつもりなんでしょー玲二の言葉を思い出して史朗は苦笑した。
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