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「おい、武田、人事異動の辞令きたぞ」

史朗は課長の山本に朝一番で、そんな事を告げられた。出勤するやいなやである。

「なんの冗談ですか?」

人事異動の時期でもないのに辞令とは・・・史朗は、カバンも置かないまま、山本のデスクの前に立つ。

庶務課より追いやられる部署が、この会社に存在するはずはないと確信しているのに・・・

「当然だろう?日下さんが間もなく定年退職するんだから。しかし、強行手段に出たな〜

まあ、ここに来る時もお前は辞令一つで飛ばされたんだ。去る時も辞令一つで引き上げられておかしくないな」

ああ・・・史朗は頭を掻いた。たしかに、史朗は支倉カンパニーの社員である。社長命令で部署が移動しても

拒否はできない。それを今まで日下と”来い、行かない”などと問答を繰り返していた事がおかしかったのだ。

「そういう手がありましたか。なんだ、押しが弱いなんて甘く見てたら社長、やりますね」

どうせ退職届は受理されないのだ。史朗は行くしかない。

「で、経理課ですか」

自分のデスクに向かいつつ、肩を落とす。

「いや、秘書課。つーかお前、社長秘書だぞ?」

あ?史朗は固まった、かなりひどい気がした。これを晴天の霹靂というのだろう。

昨日、史朗の部屋でいつも通りに和やかに世間話をしながら、カツカレーを食べていた和真は人事のじの字も

口にしなかった。抜き打ち、不意打ち、奇襲攻撃である。

(それでいいのか?支倉和真!)

卑怯者と罵りたくなる。いやもしかしたら、これは定年間近の日下が単独で行った独断人事かも知れない。和真に

談判すれば、取り消されるかも知れない。

「すみません、話つけてきます」

カバンを置くと、史朗は全速力でドアに向かう。

「どこに行くんだ?」

「社長室です」

閉められたドアを見つめて山本は、唖然とする。人事が気に入らないという理由で、社長に談判する社員。しかも庶務課の

おじさんなんてありえない。史朗が昇進を嫌がる理由もわからない。

(甲斐への義理立てか?操立ててるのか?女じゃあるまいし)

武田は甲斐の忠犬ハチ公ー当時そんな冗談も飛び交った。甲斐の前では虎というより、犬コロでしかなかったのだ。

「おい、どこ行く?」

エレベーターの前で日下に呼び止められた。玲二と一緒だ、おそらく引き継ぎでもしていたのだろう。和真はいなかった。

「日下さんですね?あの強引な人事異動!即刻取り下げていただきたいんですが」

なんの事だ・・・首をかしげて言葉の出ない日下、玲二はそんな彼を見て驚く。

「日下さん、ご存知無かったんですか?僕は、てっきり日下さんも武田さんも了承の上での人事かと」

しかし、その驚き方が、わざとらしい感じを受けてしまうのは気のせいだろうか・・・と熱くなった頭の片隅で史朗は考える。

「え〜やっちゃったの?とうとう?強行手段使った?」

大喜びで史朗の肩を掴んで揺する日下に、史朗は脱力した。社長の独断ならもう、逃げようがないではないか。

いくら週末餌付けして手懐けたといっても、和真は社長だ。庶務課のおじさんの太刀打ちできる相手ではない。

「まあ、諦めて俺の後釜に座れよ〜給料は上がるし、やりがいあるし、お前の能力は生かせるし、悪い話じゃないだろ?」

エレベーターにそのまま乗せられて、社長室まで連行される羽目になった史朗は、談判に来たことを悔いた。

あのまま逃げてしまえばよかったと・・・あのまま、出社拒否して引きこもり、ストライキに持ち込むべきだった。いや、明日からでも

遅くはないかも知れない。

「出社拒否とかするなよ〜今からお前は、社内軟禁状態にするからな」

はあ!?史朗は耳を疑う、肩にまわされた腕にさらに力を入れて、日下は生き生きとしていた。この時ほど日下が鬼だと思えた事は

なかった。まあ、それほど必死なのはわかるし、切羽詰っているのも理解できるのだが・・・

「社長!甲斐の虎は無事捕獲いたしました〜」

勢いよく社長室に入ってきた二人の秘書と、甲斐の虎を見て、和真は言葉をなくした。

「日下?何してるんだ」

「原因は社長なんでしょう?!どうにかしてくださいよ」

史朗は半分キレてしまっていた。

事情を聞くために一旦、和真は三人をソファーに座らせ、コーヒーを入れて差し出すと、自分もソファーに腰掛けた。

「社長直々の接待だ、ありがたく受けろ。で、なんの騒ぎだ」

「今しがた、うちの課長が私に辞令が出たと申しまして・・・」

左肩を、逃げないように押さえられた史朗が訴えた。

「辞令・・・ああ、社長秘書のか?あれは作成した後、思い直してゴミ箱に捨てたぞ。あんまり強引なのもなんだと思ってな」

ええ?!日下と史朗は声を無くした。強引にでも手に入れるべきかと決意して辞令を作成してみたものの、本来の押しの弱さが

災いして引き下がったらしい。すると、捨てたはずの辞令が何故、庶務課にやってきたのか?

「ああ、あれは廃棄された書類でしたか・・・私はてっきり社長のデスクからゴミ箱に落っこちたとばかり〜」

玲二が大笑いしながらそう言う。

「え、わざわざゴミ箱から書類拾って、人事部に持って行ったのか?お前・・・」

可愛い顔をしていながら、やる事がぶっ飛んでいるこの若手秘書に、和真は恐れを感じた。デスクから落っこちたような形態を

していなかったはずだ。なぜなら、和真はその書類を丸めて捨てたのだから。どう考えても、わざわざ紙を広げてシワを伸ばして

人事課に持っていったとしか思えない。この2,3日の間、辞令を前に長い時間悩んでいたので玲二は偶然、その辞令を

目にしてはいただろうが、捨てたところまで見られていたとは・・・和真は今更ながらに、この忍のとんでもなさに驚異を抱いた。

しかし、玲二に怯えたのは和真だけではない。日下と史朗もフリーズしてしまった。

「社長、いつも言ってますけど、破棄書類はシュレッターしてくださいよ〜これがもっと重要な書類だったら会社潰れてますよ?」

社長でなきゃ、あほ!と罵りたいところだった。だが・・・ふと思う、この玲二、なかなかいい仕事をするではないかと・・・

押しの弱い和真と、煮え切らない史朗、このままでは どこまでも平行線だったに違いないのだ。

「でも仕方ありませんな、こうなった以上は、武田は社長秘書という事で、私と引き継ぎを・・・」

どさくさに紛れて丸め込もうとする日下を睨みつつ、史朗はため息をつく。

「でも、庶務から社長秘書への超スピード昇進、能力にも問題なし、周りからも望まれている・・・断る理由が見当たらないのですが

武田さんは何故そんなに嫌なのですか?」

玲二はそう訊いてきた。史朗が断ればポスト日下は玲二の物であるにも関わらず、彼は史朗を推している。史朗はそのほうが謎だった。

「菊川君はそれでいいのですか?貴方、社長の第一秘書になりそこねましたけど?」

ははは・・・史朗の言葉に玲二は大きく笑う。かなり余裕の笑いだ、支倉の第一秘書など大したものでもないと言わんばかりの。

「僕が目指しているのはそんなNo.2なんかじゃないんで」

あどけない顔をしてはいるが、目は鋭く、笑っていない。ゆえに和真は彼を忍と呼ぶ。

「まあ、そういうことだから、観念しろ。でないとここに軟禁するぞ」

日下は本当にやりそうなので、史朗はとても嫌な顔をする。しかし、朝の重役会議の時間が来たので、仕方なく和真と日下は

社長室を出ることになった。

「会議から帰るまで菊川、見張っていろ」

そう言って出て行く日下に、そこまでしなくてもいいのではないかと、小さな声で反論しながら後を追う和真。それを見送る玲二と史朗。

このままでは今日の庶務課の仕事はできそうにない。いや、辞令が出たので、山本もとやかくは言わないだろうが。

「ねえ、そんなに武田さんにとって、甲斐さんは特別だったんですか?」

逃がすなと言われたので、史朗の左腕に自分の右腕を絡めて、玲二は腕組状態でホールドし、そっと寄り添うように囁くように訊いてきた。

「甲斐さんはもう、別の人と生きてるかもしれないじゃないですか?あなただけ彼に操立てて、バカみますよ?」

こいつ・・・ちらと史朗は玲二を見る。誠実なイメージで通っているこの若手のホープの、裏の顔を見た気がした。

「気になってるでしょ、支倉和真の事。週末にマンションに連れ込んで、餌付けして飼い慣らしてるんじゃないんですか?いつかは食う気でしょ?

それとももう、食っちゃいました?いい身体してますよね彼、甲斐さんとどっちがいいかな」

史朗と甲斐との関係を、この男は知っている。自分が入社する遥か昔の事を・・・誰から聞いたのか、それとも、同類の勘なのか。

「どいつもこいつも甲斐、甲斐って。何なんだ、ムカつく」

明らかに彼は甲斐に嫉妬していた。しかし、何故?今現在、甲斐は誰といるのか?甲斐のその恋人を彼も愛しているというのか?

ライトブラウンのサラサラの髪、白い肌、ガラス玉のような茶色い瞳、長い睫毛・・・まるで人形のような美しい玲二の横顔を史朗は眺める。

今まで気づかなかったが、どことなく、しなを作る仕草が垣間見えた。彼の頭の良さは和真のそれとは違う、人の感情を支配し、操る

いわゆる世渡り的なもの。一番支倉和真に欠けているものだった。

(こいつは何者だ?)

彼が和真の傍にいて安全なのか・・・重要な関心はそれだけである。

「あ、怪しんでるね、僕の事。支倉和真は薄々感づいているみたいだから教えておくよ。僕が目指すのは支倉のトップなんかじゃない。

だから安心して。そして、僕は支倉和真を守るために送り込まれた忍・・・ということにしておこう。密かに支倉和真は僕をそう呼んでいるみたいだから」

和真が玲二の正体を知りながら、傍においていると言うのか?史朗は混乱した。忙しく思考を巡らせている間も、玲二は史朗の表情を読み取り

先回りする。

「僕をここに送り込んだのは、松田忠。そして彼は支倉和真の宿敵ではない。だから、支倉和真は僕をここに置いているんだ」

和真は腹違いの兄である忠を慕っている、しかし、忠はどうなのか?和真さえ生まれなければ、忠は支倉の後継者となれたはず。そして、関ヶ原で

再び敗北している。よい思いを抱いているはずがないのではないか・・・

「いいことを教えてあげよう、支倉和真には内緒だよ。松田忠の最愛は支倉和真だ、彼は魂の全てを賭けて支倉和真を愛している。あんまり愛しすぎて

手も足も出ないほどにね。もちろん、二人に性関係は無い、言うなればアガペーというやつさ。そんな二人に武田さんは割り込めるのかな?それともお互い

最愛の代役を務める?」

ズキリと史朗の胸に痛みが走った。まさにあの夜の二人は互いの代役を務めていた。

「一旦、支倉和真に就いたほうがいいと思うよ?でないと多分、武田さんは後悔する。僕にはわかるんだ、貴方は彼を愛し始めている。そして、彼も」

しっかりと前を見据えて玲二はそう言い切った。

「何を根拠にそんな事を?」

これは心理作戦なのか?そんな言葉で、けしかけようとしているのか・・・

「わかるよ、蛇の道は蛇って言うじゃない。僕も貴方と同類だから、同じ匂いするでしょう?」

否と言いたかった。一緒にはされたくなかった。が、どうあがいても、否定できない。史朗が導き出した菊川玲二の属性は男娼。

自分は違う、そうではない。と言ったところで、大した変わりはない・・・愛だの恋慕だのといったところで、所詮、史朗も男に抱かれた男なのだ。

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