心と体の距離 6
「井上さん、銀行に行って来ます。そのまま今日はあがるから、後よろしく」
ブリーフケースを抱えて、優希は席を立つ。
ヤマが一段落したので、優希の部屋で待つと、先ほど達彦からのメールが来た。
泊り込み明けは、達彦は自分の部屋に帰らず、優希の部屋に帰ってくる。
優希が渡した合鍵で部屋に入り、仮眠をとるのが最近の常であった。
一人にすると何日も、飲まず食わずになる達彦の食事の世話をするためである。
そして、たとえ眠っているとしても、達彦の傍にいたかった。
「判りました。お疲れさんです」
井上は笑顔で答えた。
最近、優希は仕事に燃えていて、何もかもに積極的だった。
そのことは、父の龍之介も大変喜んでいて、安心して鬼頭商事東京支店を任せていた。
「組長も、一安心やなあ」
優希の後姿を見ながら、井上は微笑んだ。
部屋に帰ると、達彦はパジャマ姿でソファーに座ったまま眠っていた。
シャワーをしたらしく、髪が湿っていた。優希を待つつもりで、ソファーで眠ってしまったらしい。
「ベッドで寝はったらええのに・・・」
優希は、達彦を抱えて寝室に向かう。
泥のように疲れ果てて、眠る眠り姫・・・・
(よう、風呂場で寝て、溺れんかったな・・・)
達彦の話では、今までスーツを半脱ぎのままで、昏睡状態に陥った事もあるとか・・・
そんなにも疲れ果てているのに、自分の部屋に帰ってきてくれる事が嬉しい。
優希自身も、傍で眠っていてくれると安心する。
怪我してはいないか、食事はしているのか・・・その間は、心配でたまらなかったからだ。
「お帰りなさい」
達彦をベッドに寝かせて、優希は改めて挨拶をした。そして、達彦から眼鏡を外すとテーブルに置く。
眼鏡を外すと、妙に幼くなる達彦の寝顔を、しばらく見つめて、優希は幸せを感じる。
(俺の元に、無事な姿で返ってきてくれた。)
それが何より嬉しい。
そっとシーツをかけて、優希は部屋を出る。
晩秋の日は駆け足で暮れてゆく。薄暗い部屋の明かりをつけ、夕食の準備をするため、優希は冷蔵庫を開ける。
すっかり達彦の嫁になってしまった気分だった。
「すみません・・・なんか・・ベッドまで運ばれてしまったようで・・」
一眠りして、夜8時ごろに達彦は起きてきた。
「よう寝てはりましたね・・・拉致されても気づかんくらい。心配で一人で置いておかれへんな。」
そういいつつ優希は味噌汁を温める。
「寝相、悪かったですか?」
「いいえ、人形みたいにぐったりしてました。あ、その後、三浦さんは?」
長い間忘れていた慎吾の事を、久しぶりに思い出した。
慎吾もまた、ヤマ明けの達彦を気遣っていた人物だったと。
「もう、全然交流なしですねえ・・・父のところには時々顔出してるようですが。彼は、父や兄のお気に入りなんで・・・」
失恋の痛手はまだ癒えないらしい・・・それも仕方ない。20年越しの想いだったのだろうから。
「悪い事したなあ。ずっと八神さんの傍にいた三浦さんを差し置いて・・・」
味噌汁と煮物をテーブルに置き、優希は達彦の向かい側に座る。
「仕方ありません・・・だからって、同情で慎吾君とつきあうことは出来ませんから」
シビアに答えると達彦は箸を取る。
「あ、疲れてはるから、胃に優しいおかゆにしましたよ」
とテーブルに置いた鍋から、優希は粥をよそった。
「なんだか・・・お母さんみたいですね」
粥の茶碗を受け取りながら、達彦は苦笑した。
「伊吹のオカンが伝染ったみたいです・・・・」
「いつも、甘えてばかりですみません」
そういいつつも、達彦が遠慮無しに頼ってきてくれる事が、喜びな優希・・・
「いいえ、世話焼きたいんです」
と、優希も遅い夕食をとる
「でも、こんな事ばっかしてると、いつか倒れますよ」
「本当に、大変ですよね・・・」
人事のように言う達彦を横目に、優希は食器を片付ける。
「やすまはったら・・・」
キッチンに来てお茶の用意をする達彦を、優希は振り返る。
「寝るの、もったいないから」
「俺は・・・お茶したら寝ますよ?」
しばらく笑いあう二人。
「そうですね、鬼頭君も疲れてるでしょうし・・・」
「八神さんの寝顔見てるのが、幸せなんで・・・」
いつまで、それで満足していられるのか?でも、今は傍にいられるだけで幸せだった。
「正月はお家に帰らはるんでしょ?」
結局、早々に寝室で横になる二人。
「そうですね。鬼頭君は・・・大阪に?」
「はい。年末年始は忙しゅうて・・」
しばらくは逢えない・・・沈黙が流れる。
それどころではない。優希が9代目を襲名したら、東京にはいられなくなる。
そう思うと、達彦は不安に襲われる。
「八神さん?」
急に物思いにふける達彦を、優希は心配げに見つめる。
「そのうち、遠距離恋愛とかになるんでしょうか・・・」
「大丈夫ですよ、今までも俺らは、なかなか逢われへん中でもやってきましたから。いつも心は近くにいたやないですか?」
でも・・・・達彦はため息をつく。
理屈はそうだけれども、優希の腕がないと眠れない。
そっと達彦は、優希の背に腕をまわして抱き寄せる。
「いつまで、心だけでいられるか・・・」
え・・・・優希は固まる
「それは・・・誘ってるんですか?でも・・・今は体のこと考えて・・・」
「いえ、怖いんですよ。完全に近づいたらもう、離れることが苦痛になるだろうって」
誰かを愛し始めると、その時から孤独になる。達彦も孤独を感じているのか・・・・
「後悔すると、思いますか?」
後悔はさせたくなかった。傷つけるために達彦を愛したのではない。
「いいえ。どれだけ苦しんでも、後悔はしないと思います」
華奢な身体に隠された武道の技、達彦は、儚げに見えて芯は強いのだ。
「鬼頭君がくれるものは、喜びも、苦しみも、悲しみも、皆受け止めます。」
そんな達彦だから、深入りする事を優希はためらう。
頬を寄せると、達彦の長いまつげが優希のこめかみをくすぐる。
「あなたを、苦しませる気も悲しませる気もありません・・・」
それでも、恋は心を痛くする。守りたい・・大事なものを守りたい。
父、龍之介がそこに達したとき、ようやく伊吹を迎えることが出来たのだと、
そうなって、初めて鬼頭の後継者として立つことが出来たのだと、なんとなく思った。
そこまで伊吹は龍之介を導いたのだ。
「鬼頭君・・・」
そっと寄せられた唇を優希は受け止める、繋がれば離れられなくなる。
それを恐れながら、どこにたどり着くのかも判らず、ただ夜の闇の中、漂流を続けるのだ・・・・
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