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ある朝、仕事を一段落させた流水は、喜八の作った朝食をのんびり食べていた。夕華の錦絵が売れれば当分は
暮らしに困らず、のんびりできるのだ。
「喜八、今まで構ってやれずにすまなかったな。絵を見てやるから持ってきなさい」
師の給仕をしていた喜八は、その言葉に急いで自分の今迄描いた絵を取りに行く。その間に流水は箸を置いて、膳を片付け
喜八を待ち構えた。
「先生、ここに来て描いたものです」
と、ずらりと4,5枚の絵が並べられた。墨一色で描かれた下絵である。
「庭の花と・・・鳥、これは、家によく来るあの猫だな・・・」
全てこの家の庭から見える風景ばかりである。
「お前は人物画を描きたいのだろう?ここに私と二人きりでいてはモデルがいなくて困るだろう」
せめてスケッチに出られればいいのだが、今はつきっきりで流水の世話をしているので、出られない。
「いえ、私のようなものにモデルなんて、まだ早いです」
「なってやろうか?そうだ、私を描きなさい。練習だから別に気軽に描いてみなさい」
喜八の大きな目が更に大きくなった。
「本当ですか!ありがとうございます」
大急ぎで画材を取りに行く喜八を見つめつつ、流水は自分に驚いていた。
まさか、弟子なんてものを取るなど、夢にも思わなかったが、更にモデルになるなどありえない事だった。しかし、弟子にした以上は
喜八に絵の指導をしてやりたい。
「縁側で座っているところでも描いてみなさい」
そう言って縁側に出た流水を、喜八は色んな角度から見つめる。武家の出だけあって姿勢はいい。背筋がすっと伸びて
とても美しかった。
こうして、流水をじっくり見つめて喜八は、初めて流水の容姿が美しいということに気づいた。確かに彼を愛さないものはいないだろう
皆が彼に惹かれて恋焦がれるだろう。こんな人を、自分は師匠としているのだという事に誇りを感じる。
しかし、描けば描くほど、絵の中の流水は悲しげな佇まいになるのだ。喜八自身はそんなつもりはなくてもだ。
何枚か下絵を描いて、喜八は溜息をつく。
「どうした?うまく描けないのか」
一時間ほどして、流水は喜八の手元を覗き込む。喜八は慌てて隠そうとして、その中の一枚を取られてしまった。
「・・・すみません・・・こんな風に描くつもりは・・・」
「私はこう見えるのか?」
「いいえ、俺は、清々ししくて、凛とした先生を描こうとしたのに、どうしてでしょう」
涙目になって俯く喜八を、流水は抱きしめた。
「お前は優しい子だね。心の目で相手の真の姿を見通せるんだ、凄い才能だよ」
真の姿・・・喜八は首をかしげる。喜八は三上竜之進だった頃の流水を知らない。竜之進がどんな事で傷つき、苦しんでいたのかを知らない。
それでも彼の心の悲しい部分を、感じ取る事が出来るのだ。
「しかし、先生はこのような姿は、誰にも見せたくはないのではありませんか?」
流水の腕の中で、喜八はそう囁く。確かに他人には知られたくはない姿だ、しかし言葉一つ発することなく心を誰かと分かち合える事が
流水には嬉しくてたまらない。お町以外にもそんな存在が現れた事が・・・
「だから、これは私とお前、2人だけの秘密だ。この絵は誰にも見せてはいけないよ、でも完成させなさい」
門外不出の絵を完成させろというのだ、描き上げたらお倉入りさせるのだろうか?喜八は身を起こして流水を見つめた。
「完成した絵は私にくれないか?」
自分の絵を師に捧げるなど、なんと光栄な事なのだろうか、喜八はあまりの嬉しさに言葉を亡くした。
「私のためだけに絵を仕上げるのは嫌か?」
返事を忘れたままでいる喜八を気遣って、流水はそっと静かにそう聞く。
「いいえ、嬉しくて言葉もありません。是非お受け取り下さい」
少年の言葉に流水はホッとして頷く。例え、喜八が自分から巣立って行ったとしても、今日のこの想いが絵という形で残るなら、それだけを頼りに
生きてゆける気がした。
「ありがとう、お前はいい子だね。弟子をとるのもいいものだと、最近思い始めたよ」
その言葉が嬉しくて、喜八は隠した下絵を並べて見せた。
「構図はどれがいいですか?」
ーあの子はきっと竜さんの大事な人になる、私には分かるの。だから、自分の気持ちを偽らないで、自分から幸せを手放すような事はしないで
竜さんが拒まなければ、喜八はずっと竜さんの傍を離れないから・・・安心してねー
お町のよこした文にはそんな事が書かれていた。
(だが、喜八の好きと私の好きは違うかも知れない。この子は単に私の絵が好きなだけだ、私がこの子に依存したらきっと、この子は離れてしまうだろう)
そこまで考えて流水は目を伏せる。流水にとって喜八は太陽のような存在だ、失えばもう生きてはいけないだろう。
「先生?」
我にかえると、そこに喜八の暖かい眼差しがあった。凍りついた心が溶け出すかのように、湧き上がる激情を押し込めながら、流水はそっと微笑む。
冷静さを装って・・・
「ああ、そうだね、これなどは全体のバランスが取れていい構図だと思うよ」
こんな穏やかな日々が永遠に続く事を願う事は許されるのだろうか。この世の垢にまみれた自分には、15歳の少年はただ眩しく、汚す事のできない存在に思える。
「先生は美しい方なのだと、絵を描かせていただいて知りました」
「今までなんだと思っていたのだ」
まともに自分の顔など見もしなかったのだろうか?流水は苦笑した。
「ただ、先生は先生でした。今も先生です。でも・・・」
喜八は顔を赤らめて俯く。
「でも、美しいと思った瞬間に、魅入られたみたいに胸がドキドキしだして・・・これって何か悪い感情なのでしょうか?」
これは流水の背負った業のようなものでもあったが、他でもない喜八を魅入らせる事が出来たのだと思うと、初めて自分の美貌に
感謝したい気がした。
「悪くなどないよ、私も、喜八のその澄んだ目が大好きだ。吸い込まれそうで、ドキドキするよ」
そう言われて照れてもじもじと身をくねらせる喜八が、生娘が恥じらう様子に似て流水は、その色香にドキリとする。
喜八の自分に向けられた思いもまた、恋なのか?そんな可能性を目の当たりにして、流水は昔、愛情のない情交によって殺され、凍りついた心が
赤く熟れるように色づいてゆくのを感じる。
こんな感情を自分が持つ日が来るなど、思いもしなかった。
「先生」
再び喜八に見つめられて、流水は引き寄せられるように唇を重ね、そしてすぐに離した。戸惑う流水を喜八は抱きしめる。
「先生、好きです。大好きです、こんな俺の事、嫌いにならないでください、夕華さんの時みたいに」
「私こそ、すまなかった。驚いただろう、傷つけてしまったかも知れない・・・」
うつむいている流水を喜八は覗き込む姿勢でもう一度二人の唇は重なる。
「・・・したかった・・・こう、したかったんです、俺、眠っている先生を見つめながら、こっそりしちゃおうかとか、そんな事ばかり考えて、頭おかしくなりそうで・・・」
思えば15歳、16ななれば元服し、妻を娶るような年だ、人並みに性欲はあって当然だ。
「嫌じゃないのか、私と・・・その・・」
「嫌じゃないです、先生になら、何されてもいいです」
しかし、相手は15歳・・・流水にはまだ子供に見える。それに、そう言う関係になる前に、過去の事を話しておかなければならないのではないかと迷った。
「私は、お前が初めての相手ではない」
「わかってます、その年で何もない方が怖いです、で、相手は女ですか?男ですか?」
「両方ある、と言うか、三上の家にいた頃、お稚児の扱いを受けていた時期があるんだ」
実家が陰間の遊郭である喜八には、それがどれほどの傷を持つか、痛いほどわかる。
「容姿が美しいというだけで、親に身売りさせられたようなものだ、だから自分の容姿を憎んだ」
絵に現れた哀しさはこれだったのかと喜八は気付く。
「だから、先生は誰も愛せないまま今まで・・・」
「でも、お前が好きになった。私にはお前を愛する資格などないかもしれないのに」
喜八は絵の下書きを抱きしめて微笑んだ。
「先生、この絵が出来上がったら、妻問いしていいですか?」
喜八の笑顔に癒され、流水は涙ぐんでいた。
「嫁に貰ってくれるのか?」
「俺が嫁でしょう?一生、先生の世話焼いて暮らしますから」
喜八は自分の絵を懸想文の代わりにするつもりらしい。夕華の懸想文は貰っても、うざいだけなのに喜八のはこんなにも待ち遠しい事に流水は驚く。
そして、それまでに乗り越えないといけない壁がある事に気付く。
「雪花楼にご挨拶に行かないといけないな、息子さんをくださいと・・・平次は怒らないだろうか」
お町の文からして、お町やお紺は反対しないと思える、が父親はどうだろうか?
不安は隠せないが克服してゆくしかないのだ。