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「十郎太、今なんと申した?」
乳兄弟の鈴木十郎太と庭を散歩していた虎汰朗は、池のほとりで立ち止まった。
「はい、ですから・・・お町殿を奥方にお迎えする事は、もう反対いたしませんと・・・」
虎汰朗よりも大きな体躯で、優しげな顔をした十郎太は、虎太朗のよき理解者だった。
兄弟のように共に育ち、いつも一緒で一番の理解者だった彼が、お町の事だけは猛反対していた。
虎太朗は、十郎太にだけは反対されたくは無かったため、その事で心を痛めていた矢先の事だった。
「お前・・・熱でもあるのか?」
「殿、御戯れを・・・」
お町が城を訪ねてきた時も、敵意バリバリで迎えいれた十郎太が、何故突然、気を変えたのか・・・
「申し訳ございません、実は殿がお忍びでお城を出られる折、私はそっと後をつけておりました・・・」
おいおい・・・虎太朗は顔をしかめる。しかし、この乳兄弟の気持ちも判らなくはない。
城の外で、主君が危険に晒されはしないか心配なのだろう。
「そして、お町殿の事も、自分なりに調べました」
反対する理由は見当たらず、それが悔しくて十郎太はさらに意地になった。
「昨日、殿とゆうげを召し上がるお町殿を拝見して、諦めました。あのおかしな服装ではない、普通の着物姿のお町殿を拝見して
負けたと思いました」
そうか・・・虎太朗は俯く。
「お町殿になら、殿をお任せできると確信したので・・・」
寂しく微笑んで十郎太も俯いた。声が詰って、もうこれ以上は言葉にならない。
「ありがとう。お前にだけは祝福されて祝言をあげたかった」
「殿・・・」
顔を上げ、虎太朗を見つめる十郎太の肩に、虎太朗は腕をまわす。
「お前は家臣ではない。私の兄同然なのだ。同じ乳を飲んで育った仲ではないか・・・」
命に代えてもお守りすると誓った17歳の夏から、十郎太にとって虎太朗は主君以上の存在となった。
許されない想いを隠しつつ、自らを偽り、虎太朗の傍にいる事を望んだ。
それでも幸せだった。なのに、好きな女が現れたと聞いた時は目の前が真っ暗になった。
それでも、それなりに条件を備えた女ならともかく、町人というではないか・・・
しかし、先日の仲睦まじい二人を垣間見て、愛する人の幸せを見守って行きたいと思えるようになった。
「十郎太、すまない。知らぬふりをすることでしか、お前を守れなかった」
(殿は知っていたのだ・・・)
十郎太は瞳を閉じたまま泣いた。
十郎太の気持ちに答えられない以上、虎太朗は気付かぬふりをするしかなかったのだ。
「私では・・・ダメなのですから、諦めるしかありません・・・」
「すまなかった。次に生まれ変わって、私が女だったら、必ずお前と添い遂げる、約束する。お前が私を嫌っても付きまとって
押しかけ女房になってやる」
今世では報われる事の無い愛は、どこに行くのか・・・
しかし、十郎太は虎太朗を主君として愛する事に自己の存在価値を見出し、喜びさえ感じている・・・・
それでいいのだと、感じている。
「殿のお幸せが私の幸せ・・・本当にそう思えるのです」
俯いたまま、十郎太は歩き出した。
午後の日差しがあまりにも眩しくて、目に染みて、こらえた涙がまた溢れてきた。
そんな十郎太の背中を、虎太朗は黙って見つめていた。
「お町殿をいびったりしませんから、安心してください」
不意に振り返って、笑顔で十郎太はそう言う。
馬鹿・・・虎太朗は苦笑した。
辛い時に辛いと言えず、痛いときに痛いと言えずに十郎太は、全てを虎太朗の為に生きてきた。
そして今また、彼は自分の想いを口に出すこと無く、最愛の人を見送ろうとしている。
それは虎太朗が主君で、十郎太が家臣だという理由ではなく、ただ、愛していたが故なのである。
「ありがとう兄上。貴方に出会えてよかった」
そっと、虎太朗は十郎太を後ろから抱きしめた。そして、佇む十郎太に背を向けて歩き出した。
こんな風に犠牲にするために、十郎太は生まれたわけでも、乳兄弟になったわけでもない。
なのに犠牲にし、その想いにさえ報いてやれない自分が悔しかった。
(私はお前に甘えていいのか?)
こんな時は無性に、お町の笑顔が見たくてたまらない。
絶望も、孤独も知ってもなお、それでも明るい陽の光だけを見つめて笑う事の出来るお町の笑顔に会いたかった。
十郎太も近い将来、お町の笑顔に癒される事があるのだろうか・・・
そんな事をぼんやり考えつつ、虎太朗は明るい日差しの中を歩いていた。
数日後、十郎太は結城屋を介してお町との会合を申し出た。
結城屋の客室を借りて、向かい合って座る二人に、誠次郎は遠慮してその場には立ち入らなかった。
「殿様の乳兄弟とか言ってたけど、なんの話しかねえ」
誠次郎は、店で在庫を調べている悠太の隣でそう呟いた。
心配なのは、今日のお町のいでたちだった。
「あんな普通の姿で現れるなんて、相当お町は、あいつに気を使っているよ?」
「本当に、一瞬誰かと思いましたよ、変われば変わりますねぇ。お町さんて結構美人だったんですね」
源蔵は驚きを隠せないふうにそう言った。
得体の知れないコスプレを脱ぎ捨て、素の状態で十郎太に向かい合ったということは、ある意味、覚悟の様なものが伺える。
これは一種の戦ではないか・・・悠太はそんな気がして落ち着かない。
「お町殿、殿を宜しくお願いいたします」
沈黙を破る第一声を十郎太は発した。
城に招待された時、虎太朗から、彼は乳兄弟であり、兄のような存在だと紹介された鈴木十郎太。
その時の彼は、明らかにお町に対して敵意に満ちていた。
「違っていたらすみません。もしかして・・・私は鈴木様から大切な人を奪ってしまったのかしら?」
「違います、殿は違います。あの方はそのような方ではない、私とは何も・・・」
菊モノと呼ばれる小説の中で、お町は幾度も男同士であるがゆえに報われない悲恋を綴ってきた。
そして、作り話ではない、本当の悲恋が目の前にあった。
「ただの私の片思いです。あの方が本当に愛しているのは、お町殿・・・」
「ごめんなさい」
お町は俯いたまま涙を零した。
その涙を見て、十郎太は、虎太朗がお町を選んだ意味を知った。
完全なる敗北の意味を・・・・
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