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その後、桐島とお藤は、大奥内で話を進め、新吉との接触は極力避ける事にした。

お藤の懐妊が公表された後は、お藤は外出禁止となり大奥の中でも、あまり顔を出さなくなった。

つわりが酷いという理由で、桐島が奥深く隠したのだ。もちろん将軍様の過保護も、これに拍車をかけた。

 

「新吉さん、一応これからは、私が橋渡し役しますからね・・・」

桐島から預かった文を差し出して、誠次郎は笑う。

「わざわざお越し頂いてすみません、これからは定期的にお店に伺います。」

髪結いという職業柄か、それとも将軍家の血なのか、新吉はどこか品があり、たおやかである。

女の髪結いに混じっていても違和感が無い。かえって、女の髪結いより手先が器用だと大店の奥方は新吉贔屓だ。

「そうだねえ、お妙には期間限定でしばらく新吉さんに結ってもらう事は話したから。客を盗ったのなんだのと、揉める事はないよ。」

「若旦那・・・いらっしゃい・・」

新吉の妻、お房が、誠次郎と悠太に茶を持ってきた。

「お房さん、お腹の子、大事にしてくださいね」

はい・・・誠次郎の言葉に、お房は笑って頷く。

「上のお子さん達は、寺小屋ですか?」

悠太があたりを見回す。子供の姿が見えない。

「はい、寺小屋に通っていますよ。もう皆、そこそこ大きいですから。」

華奢な新吉の隣に座っているお房は、少しふくよかな、優しそうな女だった。

母親を絵に描いたような・・・・・

「私達は十分、子宝に恵まれました。だから、今度の子は上様の為に授かったような気がするんです」

そうは言っても、猫や犬の子をあげるのとは訳が違うだろう・・・・・

わが子を養子に出すという事は、信頼関係が無ければ出来ない事だと悠太は思う。

そこへ新たな客が、新吉の家を訪れた。編み笠を被った武家の男・・・・・

「新吉、おるか?」

男はお房の案内で家に入る。

「すまない、仕事もあるだろうに、家に篭らせたな」

そう言って笠をとり、家にあがる男に、新吉はひれ伏した。

「若旦那・・・上様です・・・」

そう囁いてお房もひれ伏した。

誠次郎と悠太もそれに続き、面を上げよという声に皆、起き上がる・・・・

「堅苦しい事はするな。そら、かすていらを持ってきたぞ。あとで子供達に食わせてやれ。」

「いつもすみません・・・」

手土産を押しいただき、新吉はお房に渡す。

「で。そこの者は何者じゃ?」

ふと、誠次郎と悠太を見て、将軍は新吉に訊く。

「例の・・・結城屋と、手代にございます」

ああ・・・・下級武士に扮した将軍はまるで、旧知の仲のように新吉と話している。

それが妙にほのぼのしいので、誠次郎は逆にいたたまれない。

「新吉さんは人が悪いねぇ・・・お客様が来るのが判ってっていたのなら、私の用は別の日でもよかったじゃないかい・・・」

”今日は家にいるから来て下さい”と言う新吉を訪ねて、上様の訪問を邪魔してしまった事を悔いた。

「いいえ、兄上にも結城屋の若旦那に会っていただきたかったのです」

え・・・・さすがの天下無敵の、結城屋の若旦那もさすがに困った。

「そうじゃな。今回の事は、結城屋が大いに健闘してくれたようだから、礼を言うぞ」

天下の将軍様・・・神のような存在の彼が、今、目の前で笑いながら語る姿は、悠太には衝撃だった。

彼はその背に、重荷を背負いながら、その重圧に耐えつつ生きる一人の人間なのだ。

しかも、その笑みは、どこか誠次郎に似て寂しげに見えた・・・

「度々、こちらにはお越しで?」

将軍相手でも、あまり物怖じしない誠次郎は、いつもの笑顔でそう訊いた。

「ああ、今では、ただ一人の余の身内じゃ。こうして時々会うて話をするだけでも癒される。」

「恐れ入ります・・・」

新吉は頭を深々と下げた。

「兄上がお城で大変な思いをされておられる中、私はこうして下町でのんびり暮らしてきました。こんな私の事を気にかけていただけるとは・・・」

「父が何故、お前の母を大奥に召さなかったか解る気がする。奥は地獄じゃ・・・最愛の女には幸せに暮らしてほしいからのう」

おそらく、先代将軍が本気で愛した、ただ一人の女性であろう新吉の母は、下町で暮らす事を望んだのだ・・・

籠の鳥でなく、自由に空を飛びまわっていたかったのだ。そして、そんな彼女を先代は愛したのだろう。

「しかし、そんな陰謀の渦巻く醜い大奥に、余はお前の大切な子を引き込もうとしている・・・」

それが、彼の最大の苦痛であった。

「兄上・・・今まで苦痛を共に担う事が出来なくて申し訳ありませんでした。しかし、お城で苦悩しておられる兄上の事を、私は

一時も忘れた事はございません。こうして妻や子に恵まれて、私は十分すぎる幸を受けました。兄上にお子がおられないのならば

どのような事をしてでも差し上げたい。そう思うておりました」

ふっ・・・将軍は、これ以上無いような、寂しい笑みをもらした。

「気持ちはありがたいが、あそこは生き地獄じゃ・・・・そなたの子を送り込んでもよいのか・・・」

今回の偽装出産はお藤も桐島も、自分と、この先の政を思えばの苦肉の策である事は、痛いほど解る。

しかし、将軍の心は晴れない・・・・

「兄上・・・・兄上は、お城で辛い事ばかりでしたか?兄上には、お藤様がおられて、お幸せなのではないのですか。

きっと、この子もあそこで最愛の人に出会い、立派に生きるでしょう。私はお藤様と兄上を信じて、子を託すのです」

皆、どこの誰に生まれるかは選べない、そんな避けられない運命の中で自分を捨てて、従ってくれたお藤・・・・

お藤のおかげで今まで生きてこれた・・・将軍の瞳から涙がこぼれる。

人前で涙する事さえ許されない彼の、素の姿だった。

「兄上・・私も、お藤様も、ついていますから・・・お一人でお悩みにはならないでください」

新吉はそう言って将軍の手をとった。

「私は、ただ一人残された貴方様の身内です。一緒に暮らす事は出来なかったけど、血の繋がった弟です。」

「お前がいてくれて、よかった・・・やはり、余は果報者じゃ」

最後に見せた将軍の笑顔は本物だった、と誠次郎は思う。寂しい笑みではなく、本当に幸せな笑みであったと・・・

 

 

「将軍様も大変だねえ。なんか、私ゃ商人に生まれてよかった・・・」

新吉の家を出て、結城屋に帰る道すがら、誠次郎はつぶやく。

「そうですか?若旦那も結構大変なところを通過してきてるように見えますけどねえ・・・」

悠太は大笑いしながらそう言うと、誠次郎も負けずに反撃に出る。

「それを言うなら悠太こそ、波乱万丈の人生なんじゃないか・・・」

まあ・・・そうですけど・・と頷きつつ悠太は誠次郎に寄り添う。

「商人も、武家も、将軍様も、皆、大変なんですよ。」

そうだねえ・・・誠次郎は考える。

悠太に逢えない平凡な人生と、悠太に逢えるけれども辛い人生・・・その2つしかないなら誠次郎は後者を選ぶ。

だから、それでいいという結論に達する。

「つまり、商人も、武家も、将軍様も色々世知辛いけど、悪くない人生送ってるって事だねえ・・・」

「そうですよ。文句言ってたらバチが当たりますよ」

別に、不幸比べや不幸自慢などするつもりは無い。自分が今、幸せなら、それでいいんだと思える。

「でも、悠太がいないと私ゃ、不幸のどん底だねぇ」

悠太さえいれば、どんな事にも耐えられる・・・

「それは、私もですよ。」

悠太の横顔を見つめつつ、大事なもの一つあれば、結構、幸せに生きてゆけるものなのだと誠次郎は思う。

「それでいいんだねぇ・・・」

「はい、いいです」

そっと、こっそりと握られた悠太の手が温かい。

「それはそうと・・・悠太〜子供産んでおくれ〜」

「無理です・・・」

そればかりは不可能である。

「お藤様に産めて、悠太に埋めないはずは無い!」

「いえ・・・無理ですから・・・」

本気なのか、冗談なのか、判らない誠次郎の攻撃に、悠太は途方にくれていた。

 

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