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最近、雪花楼に現れた橋田屋の若旦那、幾三は、ここのところ葵のところに通い詰めていた。
元々は橋田屋で奉公していた番頭が主人に見込まれ、婿養子に入ったらしい。
しっかり者で店内の信頼を一身に受け、真面目で堅物、夫婦仲もいい・・・と誠次郎は言っていた。
(そんな男が、何で廓通いなんだ・・・・)
平次は理解できない。
明らかに、ここに来るような人種ではない。更に葵が言うには身の上話を聞いて帰っていくという・・・
葵には非常に親切で、紳士的なので一旦安心はしているが、気になる人物ではあった。
「若旦那、これ・・・」
葵は、やって来た橋田屋幾三を部屋に上げると、袂から折鶴を取り出して見せた。
かなり古いものだが美しい千代紙で折られていた。
「この前、お話した私の宝物です。兄さんが奉公先のお嬢さんに頂いたものを私にくれたという・・・」
「ああ、これだ・・・間違いない」
小さく呟くように幾三はそう言った。
「え?」
「いや、それで、葵さんはお兄さんのこと覚えているのかい?」
奥の寝室に入り、座ると彼は葵を見上げる。
「顔は覚えていません、物心ついたときには兄さんは奉公に出ていて、お正月くらいにしか帰ってこなかったから・・・
でも、帰ると私と遊んでくれて、奉公先から頂いた美味しい物もくれました。」
内掛けを脱いで掛けると、葵は幾三に向かい合って座る。
「この折鶴は私の支えなんです。貧しくて辛い生活の中で、こんな綺麗な物がこの世にあるんだと思っただけで、
幸せになれました。お城のようなところにいる、綺麗な着物のお姫さまが折ったんだと想像するだけで、心が温かくて・・・」
幾三は顔を背けて涙ぐむ。
不公平だとは思わなかったのか・・・憤ったり、ねたましくは無かったのか・・・
「・・・でも、葵さんはお姫様のように綺麗ですよ」
錦の着物に身を包み・・・・でも、それよりも美しいのは心・・・
「これはうわべだけ・・・どんなに着飾っても、これは剥ぎ取られる為のものなのだから・・・」
我慢できなくなって、幾三は葵を抱きしめる。
「苦労したね・・・すまない・・・」
何故か懐かしい。葵の瞳から涙が溢れる・・・
「若旦那・・・」
「もし、お兄さんが迎えにきたら、どうする?」
探せるはずも無い、兄が自分を探しているとも思えない。
「そんな事あるはずが・・」
顔も覚えていない兄・・・
「恨んでいるか?」
いいえ・・・首を振る姿が幼く見えた・・・
幾三は再び、葵との距離をとった。
「若旦那・・あのう・・私がお気に召しませんか?」
何のことか判らずに、幾三は不思議そうに葵を見つめる。
「ここは・・・廓です」
「話だけして帰って行くのは、いけないのかい?」
優しい笑顔・・・こんなに親切に接してくれた客はいなかった。愛されているような錯覚を起した・・・
なのに、その人は自分に触れようとしない・・・・
「いいえ・・」
「こういうところ不慣れだから・・・しきたりとか判らなくて、よく怪しまれるんだ」
そう言って笑いながら立ち上がり、窓際にたたずむ。
自分の前にも他所の廓に通っていたんだろうか・・・葵は、ぼんやりそんな事を考える。
「ここの店主は、いい人みたいだね」
世間で色々言われているが、実際は情が深いようだと幾三は感じた。
「そうですね、廓の中では一番いいところじゃないですか?」
他所に比べれば天国だ。陰間たちは皆ここに鞍替えしたがってもいる。
「よかったよ。ここで・・・」
時々、幾三がささやくように言う言葉が葵は気になる。自分への言葉ではなく、独り言のような言葉・・・
「もし、年季が明けたら何したい?」
日々忙しすぎて、あまり考えてもいなかった。そう訊いてくる客もいなかったし・・・
「小さい頃からここにいたので、他に何が出来るのか判らないんです」
「お前は、この界隈では三味線で名を馳せているようじゃないか?」
(やはり、この人は他の廓にも通い詰めていたのだ・・・)
不慣れと言いつつも、色町の情報に詳しい。通いつつ、いろんな人から話を聞き出していたに違いない・・・
「人に教えるのはどうだい?」
「でも・・・」
そうなると、やはり置屋などに出入りする事になる、色町から離れられない自分というのも心痛むものがあったのだ。
「そういえば、踊りのお師匠さんのところで、三味線弾きを探していたなあ・・・」
くすっ・・・
真剣に、具体的に悩む幾三が滑稽で、笑ってしまった。
「今すぐ廓を出るような言い方ですね・・・」
(すぐ出るんだ・・・もうすぐ)
幾三は俯く。
しばらく沈黙した後、思いつめたように葵は口を開く・・・
「若旦那・・・今夜は泊まっていってくださいな」
葵のその言葉は、客に媚びているのではない事は明らかだ。しかし、だからこそ本心から出た情熱に幾三は戸惑う。
(勘違いさせてしまったかも知れない・・・)
不安になる
「私は、お前を弟のように大事に思っているよ。」
そういい残して、微笑みながら帰っていく幾三の後姿に、葵はため息をつく。
朝まで傍にいてくれたらどんなにいいか・・
次は何時会えるのか、もうこれっきりになったら・・・そんな不安に駆られる自分が滑稽だった。
聞けば妻がいる人。自分など見向きもされないだろう。ならば何故ここに来るのだろう?
同情されているのだろうか・・・
階段を降りて店を出て行く幾三を見送りつつ、葵は唇を噛む
そんな葵の後ろ姿を見つめつつ、平次は心配になる。
葵は幾三を愛してしまった・・・しかし、幾三は見たところ、葵に惚れているという風ではない。
恋愛感情を感じないのだ。
(何かの情報を聞き出すだけなのかも知れない・・)
すると葵は・・・・・
「大旦那・・・」
視線を感じた葵が振り返る
何も言えずに頷いて立ち去るしかない平次は、しかし心穏やかではない。
こんなことは日常茶飯事だ、一々気にしていては身が持たない。判っていても見過ごせない。
どうする事も出来ないと、自分は無力だと判っていも・・・・
思いを振り切って、やってくる客を出迎える。葵のことを頭の奥にしまいこみ、次の業務に移る。
これが自分の仕事だと・・・ただ見届けるのが役目だと言い聞かせつつ。
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