天使の微笑 3
かなり久しぶりに、馨が特別講師として大学に来て、帰りに光輝の部屋にやってきた。
「珍しいな、お前がここに来るなんて」
変に騒ぎ立てられるのが嫌で、光輝が教授に入ってからは、大学は避けていた。
「気にしなくなったんだ。誰が何を言おうと、気にしなければいいんだって教えてくれたのは光輝だろ?」
それはいい事ではあるが・・・
「ウチの生徒の差し入れで、クッキーとかあるけど・・・」
光輝は、引き出しを開けて可愛いラッピングがされた、有名な洋菓子店のクッキーを取り出すと、
コーヒーと一緒にトレイに乗せて馨に差し出す。
「何?女子大生からの差し入れ?鷹瀬教授はモテるね・・・」
「冷やかすなよ、あわよくば佐伯先生に会えるかも・・・なんて思ってるんだろう?よく佐伯先生に会わせてください
とか言われるけど?」
そう愚痴りつつ、光輝は自分のコーヒーカップを取る。
「それで、なんて答えたんだ?」
馨は、光輝の答えに興味津々だった。
「俺の大事な恋人を、そう簡単には会わせられないって・・・」
はあ・・・よくもそんなクサい事が言えたものだと馨は呆れつつ、コーヒーを飲みだす。
「知ってるか?お前がここにいるんじゃないかと、ここの学生達がこの部屋の前をうろうろしてるの」
「今?」
「外室中の札かけてあるから、入っては来ないけどな」
いつの間に・・・馨は目を見開いた。
「お前がさっき入ってきた時、素早くかけて鍵かけたから、安心しろ」
でなければ今頃、失礼します〜と言いつつ、英文科の学生がここに押しかけているところだ。
コーヒーカップを片付けながらそう言うと、光輝はトレイを持って席を立った。
「じゃ」
その時、いきなり馨も立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出してきた。
いきなり馨にキスされて、光輝はありえないシチュエーションに戸惑う。
「こういう事しても平気か?」
「な訳ないだろ?なに?いきなりキャラ変わってるけど・・・つーか、ここCCTV設置されてるって知ってるか?」
どこ?と部屋を見回す馨の落ち着きが、光輝には信じられない。
「それ、ついてないって自信あるわけ?」
「どっちでも・・・というか・・・嘘だろ?CCTV」
嘘だけど・・・光輝は降参した。
「これから講義何だけど、終わったら一緒に帰らないか?」
「ああ、大学の前のカフェで待ってる」
「いや、ここで待て」
机の前で資料をそろえながら、光輝は笑いつつそう言う。
「鍵かけてりゃ誰もこないし・・・」
「CCTVは?」
だーかーらー・・・光輝は苦笑する。
「恋人ここに隠して講義に出るのって、なんかドキドキするじゃないか?」
資料と教科書を抱えてドアに向かう光輝に、馨は呆れる。
「待つ方も、かなりドキドキするけどな」
そう言って、光輝のネクタイを直してやる。
「待ってろよ?」
馨を抱き寄せ、光輝はそっと耳打ちして出て行った。
それを見送り、馨はソファーに身を沈める。光輝の抜け殻は心地よかった。
一息つくと、馨は次回の出版予定の、プリントアウトした原稿を取り出すと、赤ペンでチェックを始めた。
自分で企画を持ち出した、初めての散文集である。そしておそらく、著書はこれが最後になる・・・
ただ、伝えたい事を伝えるために・・・そんな個人的な目的での出版を、出版社は快く受け入れてくれた。
つまりは、売れるか売れないか、それだけなのだ。そして、売れる事を見越しての企画なのだ。
光輝の空間で行う作業は、自室より安心できて、くつろげる・・・
「おい、馨」
光輝の声に瞳を開くと、馨は、いつの間にか眠っていた自分に気づく。
「そんなにすやすやと、安らかに眠るなよ・・・」
身を起こしつつ、胸の上に置かれた原稿をカバンにしまう馨に光輝は笑いかける。
「ここに来てまで仕事か?」
「何もしないよりは、いいから」
ゆっくり起き上がると、馨は帰り支度を始める。
「て、疲れてないか?仕事しすぎだろう?」
「いや、ここは居心地がよくて、まったりしてしまうんだ」
光輝も机の上を片付けて、カバンを肩に掛けた。
「外食していくか?今日は時間あるから、映画とか行けるけど?」
うん・・・
頷きつつ、光輝の後ろについて部屋を出る。
「メシ食って帰ろう。映画は、DVD借りて家で観ればいい」
「家で映画鑑賞?最近デートしてないし、つまらなくないか?」
夕陽が照らす廊下を歩きつつ、大学生時代、この英文科の廊下を、馨は人目を避けるように
悲痛な思いで歩いた事をぼんやり思い出す。
「どこかに行くより、2人っきりでいられる方がよくないか?」
「なに?いちゃつきたいの?それならそう言ってくれれば・・・馨は最近お茶目だな。年上でこんなに可愛いって
反則だぞ」
笑いながら校舎を出て、駐車場に向かう。
「車はすっかり俺の通勤用になったな・・・」
2台の乗用車を持つ必要も無い気がして、馨の車を今は光輝が通勤用に使っている。
馨のたまの外出は、バスやタクシーになってしまった。
「教授のバス通勤はあんまりだからいいんだ。それで」
「佐伯先生がバスで出版社行くのは、いいのか?」
「近いからいい」
そう言って、助手席に乗り込むと、馨はシートベルトを締めた。
「家の方はどうだ?」
走り出した車の中で、思い出したように馨は光輝に訊く。
「問題ない・・・というか、馨も大学時代は、お茶目で可愛かったのかな・・・」
はあ?・・・一瞬、からかっているのかと馨は顔をしかめたが、光輝の顔が大真面目なのを見て、答えに困った。
「天使の微笑・・・だって?」
そんな話が出たのか・・・ため息が出た。
「だんだん、元の佐伯馨に戻ってきたのか?」
そういわれても、馨自信には自覚が無い。
「ほら・・・高校教師時代はどちらかというと氷の微笑だったろう?真夏でも寒かったぞ?お前」
あの時代は、心から笑う事さえなかった。
そう思えば、今は光洋に出会う前の状態に戻ったと言っても過言ではない。
「密かに俺、お前の事、氷の女王とか呼んでたもんなあ・・・」
氷の女王か・・・そうかもしれないと馨は笑う。
「ありがとう。光輝のお陰だ」
解ける事は無いだろうと思っていた氷結していた心が、あとかたもなく解けていた・・・
そんな事にも、今気づいた。
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