帰還と逃亡 1
あれから1年。
光輝は成田空港に降り立った。昨夜は大学の寄宿舎で送別会があり、教授や生徒達と飲み明かした。
帰ってきて嬉しいというより、古傷に触れるような恐れを感じる。
その古傷はまだ癒えていない・・・
馨を忘れるために、1年間をわざと忙しく過ごした。向こうでの生活レポートを毎週送って、雑誌に連載したり
馨との事を整理する意味で、自叙伝を書き溜めた。馨との出会い、葛藤、別れ・・・再会・・・乗り越え、
守ろうとした愛と、再び訪れた別れ。
総てをそのまま書き記し、帰国したときに消し去るつもりだった。
馨と玲子の幸せな家庭を確認すれば、諦めはつくと思っていた。
スーツケースを、空港から家に宅配で送り、書類ケースとノートブックを片手に窓際にたたずんでいると、
後ろから光輝を呼ぶ声がした。
「光輝くん、探したのよ・・」
二宮玲子だった。
「俺も探すつもりでした。ちょうど良かった、馨は元気ですか?子供は?」
「その事で、話があるの」
思いつめた玲子の表情に、光輝は不安になった。
空港内のカフェで、玲子と向かい合って座ると、光輝は彼女から出る言葉を息を殺して待った。
「1年前、私は馨に、貴方の前で嘘をついてくれと頼まれたの」
え・・・・光輝は思考が停止した。
「私と馨は、結婚なんかしていない。どころか、私は馨の子どもを身篭ってもいなかった」
「総て・・・嘘だったと?」
「馨とは何も無いわ。というか、馨が女に手を出せるのかどうかさえ、謎だけど」
「どうして?そんな事を今さら・・・結婚が嘘だったとしても、それを口実に、馨は俺と別れたかったわけだし・・・」
「君を、アメリカに送るためよ」
そんな・・・・・
「馨が招待講師の事、知らなかったと思うの?」
一度も、馨はその事には触れなかった・・・・しかし、知っていた・・・
「鷹瀬教授も送るのを諦めた招待講師を、馨は諦めなかった。君のためよ、君の将来のために馨は・・・」
「そんな事・・・」
「無いと思うの?現に君は、アメリカで招待講師を1年勤め上げた。馨は・・・」
「馨は、どうしていますか?」
「仕事は相変わらず忙しいけど・・・誰とも必要以上にかかわらず、ずっと一人・・・ごめんなさい。
だから、光輝君が無事に役目を果たして帰ってきたら、話すつもりだったの。そのとき、君に恋人がいようと、
婚約者がいようと・・・」
恋人など作る余裕など無かった。馨を忘れようと必死で・・・・
忘れようとしても、あちらでのテキストは光輝が訳した、馨の論文なのだ。
「馨は今、何処に?」
逢わなければ・・・・と思う。もう一度、馨を捕まえなければ・・・・
「2時から記者会見よ、帝国ホテルの会議室で。私も仕事で、そこに行くけど?」
「俺も連れて行ってください」
そう言いつつ、光輝は席を立った。
「佐伯先生、久しぶりの小説ですが、コンセプトは?」
並べられたパイプ椅子に座った記者が、ずらりと並んでおり、正面には佐伯馨・・・
少し、やつれた姿が痛々しいが、最後のあの日と変らぬ姿でそこにいた。
「今回はオムニバスで、百人一首を主題に、舞台を現代に置き換えて・・・・・」
インタビューに答えている馨の表情が固まった。
目を疑う。これは幻ではないか・・・・
真ん中の通路を突進してくる、鷹瀬光輝の姿を見てしまったのだ。
ガタッ 立ち上がり、馨は引きつけられるように長いテーブルを迂回して、光輝に向かって歩き出す。
無事に帰国した・・・それだけで幸せだった。
テーブルの端で2人は向かい合った。
その瞬間、周りは目を疑い、息をのんだ。
光輝は馨を引き寄せると、いきなりその唇にキスをした。
一呼吸置いて、記者たちのフラッシュが浴びせられ、動揺している馨の肩を抱いて
光輝は近くのドアから外に出た。
「逃げるぞ」
非常階段を駆け下りながら、馨は内ポケットから車のキーを取り出す。
「地下の駐車場に車がある・・・」
そのキーを受け取り、光輝は地下の駐車場に向かう。
馨の車に乗り込むと、光輝は運転席でハンドルを握った。
「行くあてはあるのか?」
「ない。行き当たりばったり」
走り出す車の中で、光輝はやっと一息ついた。
京都の郊外にある大きな旅館の裏口で、中年の女将らしき女性が二人を待っていた。
「叔母さん・・・」
「光輝?大きくなったわね・・最近は時々雑誌やテレビで、あんたの事見聞きするけど・・・また突然どうしたの」
そういいながら中に招き入れる。
「アメリカ行ってたって?兄さんから聞いたけど、帰ってきたのね・・・」
長い廊下を歩いて離れに向かう。もう、夜の9時を過ぎていた。
光輝はあてもなく逃亡した挙句に、父、光洋の実妹、君子を頼った。
京都の旅館に嫁ぎ、いまは女将として切り盛りしている。
幼いころは、家族旅行でよく訪れたものだった。
「そのアメリカでのレポート依頼されてて、邪魔されずに執筆したいから、ここを思いついたんだ」
「兄さんも時々篭りに来るわよ?本書くときにね、最近は本より、テレビ出演で忙しいみたいね」
そう言って、彼女は離れの間の戸を開ける。
「ここは作家先生達が、執筆するのに人目を避けて滞在されるお部屋。一般客とは出会わないし、
静かでいいわよ」
「ありがとう、助かったよ。叔母さんがいてくれてよかった」
「従業員はここには送らないから、布団の上げ下ろし、掃除は自分でしてね。
食事は私が運んであげるわ。見つかると色々面倒なんでしょ?じゃあ担当さん、光輝をよろしく
お願いいたします」
そう言って出て行く叔母の後姿を見送ると、戸を閉め、光輝はテーブルの前に座る。
「さて、詳しい話を聞かせてもらおうか」
「聞いたんだろう?玲子さんに・・・一緒に来てたじゃないか」
テーブルにすわり、ポットの湯でお茶を入れる馨。
「で、俺に言う事は?」
「お帰り」
「おい!」
テーブルを拳で叩く光輝にかまわず、馨は湯飲みを差し出す。
「お前はむこうで頑張ったし、これからむこうでの経験を活かして、もっと成功していける・・・」
馨の望みが、それであった事は充分判る。だが・・・
「傷ついたんだぞ?1年間辛かったんだぞ・・・」
それを言われては、返す言葉も無い。
「すまなかった。許してくれとも、復縁を迫るような事もしない。その資格もないしな・・・」
わかって無いな・・・光輝は呆れる。
「今の状態、把握してるか?」
ああ・・・そうだった・・・記者の目の前でラブシーンを演じて逃げてきたのだ。
「どうするつもりなんだ・・・というか・・お前、バカか?なんで堂々と凱旋してきて、スキャンダル起こすんだ?」
「いや〜我ながらドラマチックな演出だったなあ〜映画の”卒業”みたいだったろう?」
「どうして、今までの苦労を台無しにするんだ?」
新井俊二の件で、どれだけ苦労したか・・・馨はため息とともに、頬杖をつく。
「俺を騙した罰だ。お前は一生、俺から離れられない」
そう言って、光輝は首からかけていたチェーンを外して、そこに通された指輪を手にする。
「お前は俺のものだと、マスコミに宣言すれば、お前は二度と、俺から身を引く事なんか出来なくなるからな」
そう言って指輪を馨の左の中指にはめる。
別れたあの日、光輝に返したカップルリング・・・再び戻って来た。
「ちゃんと薬指用買ってやる。もう隠さなくていい。」
「しかし、いつまでも隠れていられないだろう?お前、鷹瀬教授にも迷惑かかるんだぞ?」
「何を親父の心配してるんだよ?むかつくな・・・」
しかし・・・必死で新井俊二事件を乗り越えてきたあれは、無駄だったのか・・・
「それより、自分の心配しろ。お前の”聖痕”暴露するからな」
え・・・完全に思考回路が停止した馨を、光輝は真剣な顔で見つめていた。
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