トラップ 1
馨の部屋のドアの前で光輝は佇む。来ては見たものの、あわせる顔が無い。
浮気が妻にバレていたと判った父と、父の昔の愛人に入れ込んでいるのがバレた息子・・・
滑稽すぎる。自業自得だ、愚か以外の何ものでもない。
「鷹瀬・・・何してるんだ?」
廊下の向こうから馨がやって来た。外出していたようだ。
スーツ姿なのを見ると、何か公式の行事に参加していたらしい。
「来るなら、電話して来いよ。待ったか?」
そういいながらキーを差込み、ドアを開ける。
「体冷えてるな、風邪ひくぞ。風呂沸かすから湯に浸かれ」
部屋の中に入って、上着を脱いでハンガーに掛けた馨は、うなだれて、立ちすくむ光輝を振り返る。
「話は、身体を温めてからだ」
風呂上りの光輝は、馨のバスローブを纏い、肩にタオルをかけて髪の水気をふき取りつつ、ダイニングの椅子に腰掛ける。
「晩飯食ったか?」
牛乳で煮込んだコーンポタージュのスープを馨は差し出す。
「今、何時だと思ってんだ。食ったよ・・・コンビ二の弁当だけど・・・」
強がりで憎まれ口をたたく。そうしないと、今にも馨に泣きついてしまいそうだった。
「今日、卒業式だったんだろ?」
「ああ」
長い沈黙が流れる。
「何か、あったな?」
こうして向かい合っていると、高校生の頃の進路指導室での会話を思い出す。
(まだ、俺はこいつの教え子から抜け出せない)
そんな絶望感、それでも馨に心配されている事に安堵を覚える。
「お袋なあ、気付いていたんだ、親父が浮気してた事。知っていて今まで黙ってた」
ああ・・・
馨は頷く。
「女は鋭いぞ、自分が相手に愛されているかどうか、その事にだけ、命がけだからな。バレてないと思うことが迂闊なんだよ」
そう言いつつ、自分も昔そうだった事に気付いて苦笑した。
「でもそれで?離婚するとか、そんな事になっているのか?」
飲んでいたコーンポタージュのカップをテーブルに置いて、光輝は首を振る。
「伯父さんの言う事には、離婚はしないそうだ。」
「じゃあ、じわりじわり締め上げる気か?」
自嘲気味に、馨は薄笑いを受かべる。
確かに、光洋は妻を愛していなかった。あの頃、自分は勝ったと思っていた。
しかし・・・実際は、ー 戸籍 ー この法的関係ゆえに負けていたのだ。”妻”と言う位置は不動だ。
実質上、愛されているかどうかなど関係ない。この確かなものを手放す手は無いのだ。
「どうなるんだ・・・親父は?俺は?お袋は、伯父さんの退院祝いに、佐伯を呼べと言ってきた。お前の事、勘付いているぞ」
仕方ない・・・そう思う。それも自業自得だ。
妻子がある男と不倫したのは自分自身だ。その妻にののしられても、何も言えない。
「もう、過去の事だし、今は教授も浮気していないんだから、そのうち元に戻るさ」
重要なのは今だと、思いたかった。
「佐伯、お袋な。俺がお前に惚れてる事も知っているみたいなんだ」
え・・・・・
馨は凍りつく。夫ばかりでなく、息子さえ盗られたとなると、確かに鷹瀬夫人は黙ってはいまい。
しかも、女でなく、男に・・・・
「だから、俺を呼べと言うのか?」
「お前は伯父さんの教え子で、俺の恩師だ、そして今は仕事仲間。呼ぶ理由は充分あると言うんだ。」
しかし、その理由の中に、確かに何らかの意図がうかがえる。
「呼ばなければ、事実を肯定した事になる。しかし、お前が来ても、状況は悪化するだけだろう?」
「本妻の愛人いびりか・・・何故、今になって?」
コーヒーメーカーからコーヒーを注ぎつつ、馨は呟く。
「愛される事を辞めたんだ、お袋は。復讐する気なのかな・・・」
復讐・・・馨は唇を噛む。それらしい黒い影が見えるのも確かだ。
「きっかけがあるはずだ、なんだろう・・・もしかして男とか?」
まさか・・・光輝は笑った。が・・・最近、気になる事があった。
家を出てから何度か荷物をとりに家に帰ると、英文科の教授、麻生実がいたのだ。
光洋の後輩に当たり、ポスト鷹瀬と噂されつつも、光洋に追いつけず、さらに鷹瀬ジュニアの出現で、焦りを見せ始めていた。
「親父の留守に、教授の麻生が家に来ていた・・・まさか、お袋が不倫?」
「いや、早まるな。不倫かどうかはわからないが、麻生が夫人をたきつけている事は事実だ。お前が英訳にかまけている
間に、鷹瀬教授をスキャンダルで落とす気なんだろう?」
確かに・・・光洋といるところを、麻生には何度か見つかった。光輝が家を出て今、夫人と接触するのは容易い。
「下手すると、心中未遂まで暴露されるぞ」
そうなると光洋と馨、光輝までが潰れる・・・
「まさか、お袋がそこまで・・・」
「だから、夫人は利用されているんだ。退院祝いに、麻生も呼ばれているのか?」
光輝は青ざめる・・・
「お袋が・・・呼んだって・・・」
馨はため息をつく。
「その場で派手に何かが起これば、取り返しが付かないかもな。俺は行ってはいけないようだ」
「どうすれば・・・」
光輝は途方にくれる。
「服部教授に報告しろ。あの人は、よくも悪くも護身術に長けているからな。早めに麻生が、鷹瀬夫人にちょっかい出した
とか、なんかで告発するのが得策だ。ただその時、不倫と言う事にならないよう気をつけろ。早めに報告しろ。今日中に。
なんなら今、電話使え」
馨は玄関先の電話を指す。光輝は頷いて立ち上がる。
ため息とともに、馨は立ち上がり、浴室に消える・・・
「話はついたか?」
しばらくして、馨がパジャマ姿で浴室から出てくる。
「ああ、明日何とかしてみるそうだ」
「服部教授も、我侭でお子様な義弟のお蔭で、苦労するよな」
馨は人事のように言う。
「自分も危機なんだぞ?佐伯・・・」
ふっ・・
昔の冷めた笑いを馨は浮かべる。
「自分の罪を隠そうとも、無かった事にしようとも思わないよ。もう堕ちた身だ。怖いものは無い。しかし、教授とお前は
そうは行かないだろうな・・・」
辞めろよ・・・そんな言い方。光輝は目を伏せる。
罪を隠して、罪を重ねて、がんじがらめ・・・それが光洋であり、服部だ。しかし、それは処世術であり、生きる術ではないか。
「いやだ、俺は自分も、お前も守る」
たとえ、ずるい大人の仲間入りをしようとも・・・
もともと、光輝は他の教授達の視線を感じていた。
鷹瀬ジュニアだからと学長にも目をかけられて、学生の身で出版社の英訳の仕事まで受けた。
ー普通、学長が言って来たにしても、他の教授に譲るべきなんじゃないのか?−
そんな声が上がっていたのも知っている。馨の本でなければ、引き受けなかった。馨だから・・・
光洋が反対したのは、この事もあったのだ。
光輝が教授になった時、先輩教授達の反感をかえば、後々不利になる・・・
「俺が大学教授になんかならなけりゃいい事だ。ポスト鷹瀬なんか麻生にくれてやる」
妬まれるのは仕方ない と馨は思う。
あまりにも光輝は恵まれ、輝いている。恵まれずに自力で這い登ってきた者達は、どんなに彼が妬ましい事か・・・・
彼には父、鷹瀬光洋が重荷でしか無いのだろうが。
「ところで・・・今こんなんで部屋に帰ったら、湯冷めするよなあ・・・」
3月とはいえ、夜はまだ寒い。
「なにもしないからさぁ・・・」
バカ・・・・馨は苦笑する。この適度な甘えは、父親譲りだ。
「来た時は、えらくしょげてたのに、今は元気だな」
「佐伯といると、落ち着くんだ」
ああ〜
「ベッド貸してやるから、もう休めよ」
と空き部屋に入ろうとする馨を、光輝は引き止める。
「横に寝てくれないかな・・・」
・・・・・・・・・・
気まずい沈黙が流れる。
「あ〜佐伯、俺の事、誤解してるよ!!」
「してない。まんまだ」
そりゃあ・・・・高校当時のことを思い出す光輝。
(抱きついたり、キスしたり・・・襲いかけたり・・・あ、まんまだ・・・・)
「いや、お前だってな・・・中庭で俺に・・・」
「判った。そっちで寝てやる」
馨も過去の事は、触れられたくないらしい。
「おい!コレなんだよ!」
寝室で、馨はいきなりベッドの横に布団を敷き始めた・・・
「何って、横で寝るんだ」
「いや、こっちこっち!」
光輝はベッドに横たわり、自分のすぐ横を指す。
「鷹瀬君、それはシングルベッドだよ」
「大丈夫、落ちないように抱き抱えて寝てあげるから〜」
「いい・・・・・また、どっかの誰かみたいな事、言って」
え・・・・光輝が固まる
「親父か?それ・・・・」
しまった。馨は後悔する。
「佐伯て・・・デリカシーないなあ・・・」
海より深く落ち込む馨。ついつい心をオープンにして、何でも口走ってしまう自分が憎い。
「それは、俺が恋愛対象じゃないって事?」
ぷいっ。ふくれて背中を向けて、ふて寝する光輝。
しかし、馨にとっては、これほどに心を開いた事は驚きだった。
(もう、本当に過去になったんだ・・・)
光洋との事は、馨の中で封印されていた。それが無意識に溢れ出すとは・・・・
多分、さっきは光輝が、光洋の息子だと言う感覚さえ無くしていたのだ。
それがいい事なのか、悪い事なのかは判らないが・・・・
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