片翼 5
日曜日の昼過ぎ、光輝は父の書斎に、本を借りにやって来た。
「源氏物語の訳本ある?」
「ああ・・・」
と机の前の本棚に手を伸ばし、源氏物語を探す。
「突然どうして、源氏なんだ?」
そう言いつつ、見つけた本を取り出し、渡す。
息子が、突然古典に関心を持ちだした事が気にかかる光洋は、蝋梅といい、昔の悪夢といい、嫌な予感を感じていた。
「知らべたい事があって。薫の大将って、源氏の息子なんだよな」
「正確に言えば、源氏の正妻、女三ノ宮と柏木の不義の子だがな・・・」
光輝は、父の顔を見つめる。父は英文科の教授だが、古典にも詳しかったのが、少し意外だった。
「何て顔してる?英文科教授でも、これくらいは知っているぞ」
知っている事は知っている・・・・そして昔、馨のお蔭でもう一度 薫の大将について、調べる事になり、古典にも詳しくなったのも事実だ。
「お前、なんでいきなり薫の大将なんだ?」
彼のいい知れない不安は、そこにあった。
「新しく来た産休の古典の先公が、馨っていうんだけどほら、この前、持って帰ってきた花・・蝋梅、あの香りがするんだ。身体から・・・
匂いたつように・・源氏の薫の大将も確か、そうだったなあ・・・と思ってさ・・・」
光洋の胸の警報が鳴り響く。非常に危険な予感がした。
こんな偶然があるだろうか・・・
「もしかして、その古典教師の名前」
「佐伯馨」
眩暈がした。今になって、その名を聞くことになろうとは・・・・
(まさか、本当に馨ではあるまいな)
青ざめている父を見て、光輝は不信を抱く。
「知っているのか?親父?」
それには答えず、光洋は深呼吸して心を整えた後、用心深く聞く。
「学校の職員名簿あるか?見せてくれ」
「ああ、持って来る」
部屋を出てゆく光輝を見つめつつ、桜華の産休教師が彼の知る佐伯馨とは、別人である事を祈った。
しかしこの胸騒ぎは普通ではない。
「あったよ。はい」
しばらくして光輝が職員名簿を持ってきた。
「これが古典の佐伯」
そのページを広げて見せられた時 光洋は、まっさかさまに地獄に落ちた気分になった。
間違いない、あの頃の幼い面影はなかったが、女と見間違えるほどの儚い美しさはそのままだった・・・
(馨・・・・)
光洋は額に手を当て、ため息をつく。
絶望的だ。光輝が自分の息子だとわかれば、彼は復讐するかも知れない。
されるだけの理由が自分にはある。それとも、もうすっかり忘れているだろうか・・・・
(忘れるはずは無いだろう・・・)
「親父?どうした?」
怪訝そうな光輝を見つめつつ、どう説明していいか判らなくなる。
言えるはずが無い。自分の犯した罪を・・・・・しかし・・・近づいてはならない。馨は光輝には危険な毒だ。
「佐伯馨には近づくな」
「知っているのか?親父・・・」
光洋は一瞬、目をつぶって決意したように顔を上げた。
息子を守る為に、罪の上塗りをする覚悟をした。
「ウチの大学の生徒だった、在学中あまり言い噂は聞かない。単位をとるために教授を誘惑して、脅したとか・・・とにかく素行が悪い男だから
気をつけろ。優しい天使の顔をした、堕天使なんだぞ」
父の言葉に、光輝は混乱した。どこか憂いのある表情は、獲物を惹きつけるためのものだったのか・・・
誰にも関心の無いような振りをして、獲物がひっかかるのを待っているのか・・・・
もう近づかない方がいいのか・・・
自分の獲物は、実は自分が手におえないほどの曲者かも知れないと言う恐怖、容易く手折ろうと手を伸ばしたが最後、
その棘で相手を刺し殺す、背神の薔薇・・・
とんでも無い相手を賭けの獲物にしたのではないかという恐怖が、彼を震えさせた。
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