母の葬儀を終え、しばらく喪に服していた志月がナルシス・ノワールの営業に携わるようになって6ヶ月が過ぎようとしていた。

最初は事務業から入り、家業の内情を把握しつつ、その一方で経営学も密かに学んでいた。

その中で、兄、高次のかなり強引な大手ワイナリー買収によるワイン業界進出の業績を目の当たりにし、業界の厳しさを思い知ることになる。

高次のワイン改革は、雅臣の言葉を借りると必要悪なのだそうだ。

時々は此処ぞというところで、汚い手を使ってでも、のし上がらなければならない時もある。

昔気質の日本酒専門の深田酒造では、もうこの時代を生き抜けないのだ。今ではウィスキーやブランデー、シャンパンと

様々な洋酒を手がけている。

それも各専門部面の製造元と専門技師を買収して作ったカテゴリーである。

今まで、あまり人前に出なかった志月が今度は自社のワインを売り込むという、店巡りをする羽目になったのだ。

地道にワインバーなどに売り込みに回っている時に、ルナ・モルフォのラウンジバーにも掛け合うために松田忠と会食を

した。これがきっかけで、忠とは今後も公私共に深く付き合うことになる。

「ナルシス・ノワールさんは、支倉カンパニーと契約されていますよね、私は実はあそこにいたんですよ」

ようやく支倉の会長から聞き出した忠の連絡先からアポをとり、会食にまで持ち込んだ志月に、忠はそんな話を笑ってした。

志月は、ここに来る前に下調べは済ませており、忠が支倉の外腹の子で、後継争いに敗れて今はホテル業に関わっている

ことも知っていた。しかし、これは忠にとっては、あまり嬉しい話ではないため、わざと出さなかった話題である。

「一代でホテル業を起こされるなんて、松田社長もすごい方なんですね」

目の前の長身の忠はまっすぐな瞳を志月に向けた。

「ええ、私は外腹なんで身を引きました。和真は私より優秀なんです」

敗北者の影など微塵もなく、本当に嬉しそうに忠はそういうのだ。そんな潔ささえ美しく、カリスマに満ちていた。

「そちらも、お兄様が後をお継ぎになられるんですか?」

探るような表情で忠はそう訊いてくる。

「そうですね、私は女ですから」

ふっー忠は見透かしたように笑う。

「そうだね、黒水仙のお嬢さん・・・」

志月の手を取り、そっと手の甲に口付けると忠はふいに真剣な眼差しを向けた。

「私と結婚してくださいませんか?貴方を最大限にバックアップしますよ」

浮いた噂の一つも無い、堅物という噂の松田忠が、自分に求婚してきた。しかも初対面で・・・

志月の思考回路が一時停止した。

夕食をレストランでなく、都内のホテルのルームサービスでとる事になって警戒しなかったわけではない、しかし最近では

取引をホテルのディサービスを利用する企業も増えているし、何よりまだ企画段階のルナ・モルフォに一番乗りして契約するの

が志月の作戦だったので、忠の人柄を見込んでここに趣いたのだった。

しかし、この状況はどうとるべきなのだろうか?

そして、落ち着きを取り戻すと、分析を始める。食後のワインを飲んでいるため、その場の雰囲気に任せたジョークかもしれな

い。まともに返答すると、無粋だと思われるかもしれない、しかし本当に彼が自分に気があるとなればやっかいだ。

男であることがバレてしまう可能性が出てくる・・・

ふっー とりあえず、余裕のあるふりで微笑み、自らの手を引いた。

「ご冗談を、社長にはいらっしゃるでしょう?ご本命が」

「いるにはいますが、決して報われることはないのです」

忠の、駆け引きのような、探るような瞳に志月はゾクゾクする。

「身代わりなんて、私には務まりません」

自分にはない男の魅力に嫉妬しながら、志月はそっと席を立つ。長居してはいけないような気がした。

正体がバレないかという恐怖心よりも、この伊達男に魅入られてしまうかもしれない恐怖心が先に立つ。

「そうですね、結婚は、無理かもしれない」

気がつけば志月は忠に腕を掴まれていた。

「そんななりして、君は何を守っているの?深田の家?それとも貞操?命?」

女装が見破られている事を知り、志月は忠を振り返る。

「惜しいなあ、君は私の好きなタイプなんだけど、どうやら君はストレートだ」

腰に腕を回されて、志月は抱き寄せられた。

「こんな格好してるからてっきり、枕営業に来たのかと勘違いしたよ。でも違ったら訴えられかねないから、探りを入れてみた

んだ」

浮名を流さない堅物のホテル王は、実は男色家だったのだ。そんな所に、のこのこと女装した男が来れば誤解されてもおかしく

はない。

「私は、そういう方々から見て、性的な対象になりえますか?」

志月は真剣な表情で訊いた。これは今後身を守るために知っておかなければならない事だった。

「少なくとも私には、とても美味しそうに見えるよ」

優しく笑いながら忠は、志月の頬をそっと撫でる。同じ男色家でも、高次のそれとは真逆の雰囲気を持っている彼に

志月は心を許してしまった。

「私の兄も男色家ですが、兄も私の女装、見抜いているのでしょうか?というか、私、バレバレですか?」

ギュッーいきなり抱きしめられ、志月は混乱した。しかしどこか凍りついた心が溶け出してゆくのを感じて、うっとりとそのま

ま抱かれている事を望んだ。

「うん、こうして抱き締めるとやはり男だね、がっしりしてる、うまく服でカムフラージュしてるね。これ、誰の見立て?

君のは年季が入っていて解らないよ誰にも。君に落ち度はない、確信は持てなかったけど俺が一目惚れしたってことは男だなと

そう思っただけで」

バレたにもかかわらず、志月は少しも怖くなかった。後から思えば、それは忠の人徳によるものだったのかもしれない。

とにかく、この男は脅したり強請るような事はしないと思われたのだ。

ゆっくり忠は腕を緩めて、志月の顔を見つめた。

「深田高次さんは、君にどんな態度をとる?」

「目もくれません」

ははは・・・忠は破顔した。

「それは、バレてないよ、確実に」

そう言うと忠は、テーブルの上に置いてある志月の提案した見積もりを取り上げると、再び志月の前に立つ。

「これは検討しよう。あと、次に会う時に各洋酒のサンプルもらえると嬉しいな」

志月の顔がぱっとあかるくなった。

「ということは、ワインだけでなく・・・」

「ラウンジバーの洋酒も検討中なんだ。できれば早めに欲しい。深田酒造さんとは昔からのお付き合いだし、信頼できるから

支倉から抜けても取引きは継続したい」

はい・・・頷いて志月は微笑む。父が志月に営業を任せたのは、こうした良い人脈を多く持つようにとの事だったのだろうと

志月は思う。自分を守るために・・・

「結婚してくれなくても、君の事はバックアップしてあげるから安心して。それに君が早く、その枷から解き放たれるように

本来の姿に戻れるように協力するから。助けが必要な時はいつでも相談してくれていいよ」

忠から差し出された名刺を受け取りつつ、志月は忠を見上げる。

「どうして私に、そんなに良くしてくださるんですか?」

「さあ、なんとなく守りたくなる人なんだ、君は」

この時、後でこの松田忠と深く関わることなど、思いもしなかったが

感覚的に、志月は彼は信じられるような気がしていた。

その後、何度か行き来して、ルナ・モルフォとの契約も取り付け、さらにそこから色んな人脈を得て

その実力を認められ、いよいよ本社に...

父である社長付きの秘書として付くことになった矢先に、事故は起きた。

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素材提供StarDust

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