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「これで、信じて頂けるんですか」
ドアを開けて部屋に入りながら、このヘタレな恋人が愛しくてたまらない甲斐は、そう言って忠を振り返る。
形式などに囚われるほど、不確かな絆ではないと思って入るが、何か形がなければ安心できない自分に忠は呆れて苦笑する。
「すまないな・・・自身のない恋人で・・・」
甲斐はそっと忠を抱きしめながら囁く。
「自信なんて、俺もありませんよ。なんせ貴方は、俺には支倉のカリスマ、高嶺の花だったんですから。今でも思ってますよ
俺でいいのかなって」
「俺も先日、お前が武田と会って話してた時、俺は心ここにあらずだったんだぞ。もしかして武田とより戻すんじゃないかって」
ふっー甲斐は鼻で笑って忠から離れて、上着を脱いでハンガーにかけた
「嘘でしょ?貴方はその頃、和真さんとレストランでお食事されてたの知ってますよ。後で聞いて、まだ未練あるのかなって心配しました」
キリがないのだ、このベタ惚れ同士はどこまでも不安の塊である。忠はつかつかと甲斐に歩み寄り、ぐいと甲斐のネクタイを掴むと
引き寄せてその唇を奪う。
「もう、嫉妬合戦は終わりにするぞ、婚約したんだから」
「ですね」
笑って甲斐は忠の上着を脱がせてハンガーにかける。
「でも、もし俺がプロポーズ断ったら、どうする気でしたか?」
ネクタイを外し、シャツを脱ぎながら、甲斐はそんな意地悪な質問をする。
「ああ、それは・・・超不安だった、孝雄さんの前だし、取り返しつかないしな〜」
自分の脱いだワイシャツをハンガーに掛けながら忠は苦笑する。しかし、それは多分嘘だと甲斐は思う、松田忠は確信も無い事を
進め、リスクを負う男ではない。少なくても、事業ではそうだ。
「なんだかんだ言いながらも、自信あるんじゃないんですか?貴方は負ける戦はしない」
そう言い残して甲斐はバスタブに湯を張りに行く。
戻ってくるとパジャマ姿の忠がコーヒーをいれて待っていて、甲斐もとりあえずパジャマを着て、2人のバスローブを携えてテーブルにつく。
「負ける戦、したろう?俺は落ち武者だぞ?」
甲斐にコーヒーカップを差し出して忠は笑う。
「それは、負け戦じゃないでしょう?貴方の思い通りの結果を出したでしょう?」
「まあな、お前を獲得したという事では勝ち戦か」
違うでしょう・・・甲斐は心で突っ込んだ。支倉から退き、ホテル王となった事じゃないか・・・と。
「でも、あくまで、お前は予想外の戦勝品で、仕事の相棒以上になれるとは夢にも思わなかった。だからもう凄く勝った気がするな」
「話をそらさないでください」
甲斐の尋問に苦笑しながら忠は頷く。
「お前が武田との事を整理して、俺も和真の事を整理した、だから勝算はあった。その反面一抹の不安もあったというところだ。
いい加減、不安を抱えて怯えて暮らす事に疲れたし、はっきりさせたいというのもあった。孝雄さんには、見届けてもらいたかった
もし振られたとしても。それがパトロンだったあの人への礼儀だと思った、YESだろうがNOだろうが、俺が甲斐を愛している事に
変わりはないから、俺の最愛を紹介したかっただけだから」
甲斐は頷いて立ち上がる。本当に忠は恋には不器用だ。
「さあ、そろそろ風呂入れますよ、婚約もしましたし、一緒にどうですか」
そう言われて、考えてみれば、一緒にシャワーした事も、入浴した事も無い事に忠は気付く。孝雄の愛人だった頃も、いつも先に準備して
待っていた。誰もいない支倉の屋敷で、甲斐は孝雄とバスルームで・・・・嫉妬合戦は辞めようと言ったのは自分なのに、またこんな事を
考えてしまう自分に忠は複雑な顔をする。もうこれは不治の病ではないか・・・
「そういうの、あんまり・・・ですか?」
黙り込んだ忠の顔を覗き込み、心配そうに甲斐はそう訊いた。
「と言うか・・・そういう事、して来なかったから」
「じゃあ、混浴初体験ということで・・・」
バスローブ片手に甲斐は忠の腕を取って立ち上がらせる。
「それって・・・ただの風呂なのか?それとも・・・」
未知の世界に忠は戸惑い、甲斐は浮かれている。
「お好きになさってください」
笑いつつ甲斐は忠を浴室に連れてゆく。
「普通は、どうなんだ?」
「さあ?他の人たちがどうなのか、俺と孝雄さんとはどうで、史朗とどうだったかなんて、気にしなくていいんですよ、これは
俺と忠さんとの事だから。まあ、背中くらい流して差し上げますよ、と言うか、もう銭湯だと思って入ればいいんじゃないんですか?」
そういえば昔、支倉の社員旅行の時に、宿の大浴場で甲斐に背中を流された事を思い出した。
「あの時は、なんの抵抗も無かったな・・・」
とうとう脱衣所まで来て、観念した忠はパジャマを脱ぎつつ、そうつぶやく。
「社員旅行の時、大浴場でお前に背中流された事あったんだが」
「上司の背中は部下が流す、当然でしょう」
今考えると何だか恐ろしい気がする、
「気にしすぎですよ、さっさと風呂入って就寝準備して、ベッドに行きましょうということなんで、お先に入ってますよ」
さっさと入って行く甲斐を見送りながら、そんなものなのかと忠はぼんやりと考える。今まで何にこだわっていたのか
不思議になる。恐らく、史郎に対する甲斐よりも、忠の方が遥かに自分を晒け出すことを恐れていたのだろう。孝雄に対しても
甲斐に対しても・・・甲斐と暮らし始めて、だんだん解放されてきた自分に気付く。
あれほど、史郎には頑な甲斐が、自分には本音丸出しなのが不思議ではあるが、心に壁を作っては長続きしない。事実、甲斐は
史朗といた時よりも、今が自然体で楽に見える。だからこれで良かったのだ。
浴室に入ると甲斐は、すでにバスタブに浸かっていた。
「早いな」
「忠さんが遅いんです。何を脱衣所で考え込んでいたんですか?」
浴槽のヘリに肘をついて甲斐は身を乗り出す。
「心の壁について」
え?髪を洗う忠の背中を見つめつつ、甲斐は首をかしげる。
「あ、洗ってあげましょうか?」
何気なく言った言葉に忠は大きく拒否した。
「いい、いい歳したおっさんがそれはないだろう?」
甲斐は、支倉のカリスマが実は、意外と面倒くさい男だという事に気付く。甘えてこなかった、または甘えられる人がいなかったという事
なのだろう。
「別にいいんですよ、格好悪いところもお愛嬌です、むしろそういうところが愛されるもんなんです、教えてくれたのは忠さんじゃ
ないですか?俺たちが今まですれ違ったのは、本音で向き合わなかったから、相手の胸の内を深読みしすぎたからでしょ」
甲斐が言うと何処か説得力がある、甲斐は史郎に、忠は孝雄に心の壁を作り、寂しい想いをさせていたのだろう。
甲斐に出会えてよかったと、忠は心の底から思う。
「とりあえず今日はいい、徐々に慣らしていこう。お前のおかげで俺も変わっていけそうだ」
忠の背中を見つめつつ、甲斐は大笑いする。全てから解放された忠の姿を思い浮かべて。しかし、そんな忠の傍にいられる自分が
少し誇らしい。
「気取らない忠さんなんて、超可愛くて萌え死にしそうですよ」
忠が本音を晒せる、家族のような存在になりたいと、甲斐は切実に思う。全身洗い終えてバスタブに入ってきた忠と、甲斐は向かい合う
形で体制を変える。このホテルのバスタブは大きめで男2人が余裕で浸かれる。しかし、その広さ故の距離に甲斐は耐え切れず
忠と同じ向きに方向転換し、忠にもたれる。この密着感が一番安心した。
「そんなにカッコ悪い俺を見たいのか?」
もたれてきた甲斐を後ろから抱き抱えながら、忠は困った表情をする。
「だって俺ばかりカッコ悪いなんてずるいでしょう?お互い様がいいでしょう?というか、甘やかせて上げますから甘えてください」
と後ろを振り返り、忠の顔を覗き込む。忠は少し体をずらし、甲斐にくちづけた。甘えろと言いながら、甲斐自身が甘えているとしか思えない。
しかし、そんな甲斐がまた可愛い。恐らく他の誰も、史朗でさえ知らないであろう”甘える甲斐義之”を知っているという優越感に忠は浸る。
「出ますか?のぼせそうです。と言うか、もう限界です」
よいしょ・・・と言いながら甲斐は立ち上がる。
「ここでするにはハードルが高そうなので、早くベッドに行きましょう」
脱衣所に向かいながら甲斐はそう言う。そんな行動の一つ一つが忠には可愛くて仕方ない。
顔を緩ませながら忠は脱衣所に行き、タオルで体を拭くとバスローブを羽織る。
「ほら、髪もちゃんとタオルドライするんですよ」
すでに身支度を整えた甲斐が、忠の髪の水気をタオルで拭き取る、なんだかオカンぽくて忠はとうとう大笑いしてしまった。
「笑ってないで次はドライヤーですよ」
誰かに髪を乾かしてもらうなど、今までなかったので忠はいたたまれない。神妙な顔つきの忠をまじまじと見つめ、甲斐は滅多に見ない
前髪を下ろした忠が案外童顔だということに気付く。今まではシャワーした後、乾かした髪をわざわざオールバックにして寝室に現れる。
次の朝また整え直している忠に以前一度、寝るときは前髪を下ろしたままでいいのではないかと言った事がある。
ー人前では、前髪を下ろさないー
忠はそう言っていた。恐らく、童顔なのを悟られないためだったのだろう。
「もうこれからは、前髪下ろして休んだらいかがですか?どうせ寝たら崩れるのに・・・」
「お前、萎えないか?」
「萎えるどころか、萌え死にしそうです。忠さんの前髪バージョンって俺限定でしょう?俺だけが知ってる忠さんの姿って貴重じゃないですか」
甲斐の望むのはそういう間柄で、それは甲斐が史朗に与えてやれなかったもので、孝雄が忠に望んだものでもあった。
そして、忠が与えられなかったものでもある。それは簡単そうで難しい、相手を思えば思うほど何故か自分を作ってしまい、遠ざかる。
ありのままの自分を晒し、その姿を愛してもらう事は難しい事だ。
「そうか?そういうものなんだ」
「そうです、今まで凄く気を使ってたんですよ?忠さんの髪崩さないように」
そう言いつつ、甲斐は忠の髪を櫛で整える。
「そういえば、初めて会った頃はこんなヘアスタイルでしたね」
支倉の屋敷で会った時や、甲斐が支倉に入社したての時の若い頃の忠を思い出す。そういえば長い付き合いなのだと甲斐はほっこりした。
「あーなんか新鮮だなー社長と秘書じゃなくて、上司と部下になった気分です」
そんなに違いはないだろう?と首をかしげつつ、忠は脱衣室を出る。
「待ってくださいよ、何、先に行っちゃうんですか?」
忠の後を追いつつ甲斐は、この年上の不器用な恋人が愛しくてたまらなかった。
完